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アメリカ合衆国 元大統領 レーガン さん死去

2004年(平成16年)6月5日 死去 享年93歳

レーガン元米国大統領写真 

第40代アメリカ合衆国 元大統領  ロナルド・ウィルソン・レーガン さん死去

1981年~89年に在任した米国の ロナルド・レーガン元大統領が2004年(平成16年)6月5日午後1時9分、肺炎のためカリフォルニア州ロサンゼルスの自宅で死去した。93歳だった。

1981年(昭和56年)1月21日、大統領に就任。1984年(昭和59年)の再選をかけた大統領選挙でも民主党のモンデール前副大統領に空前の地滑り的大勝を果たした。1989年(平成元年)1月20日に77歳11カ月という大統領としては史上最高齢でホワイトハウスを後にし、2期8年の任期を満了した大統領となった。

人物 / 略歴

ロナルド・ウィルソン・レーガン(Ronald Wilson Reagan, 1911年2月6日 ~ 2004年6月5日)

アメリカ合衆国の俳優、政治家。第40代アメリカ合衆国大統領。

最年長で選出された大統領(69歳349日)であり、唯一離婚歴を有する大統領である。身長185cm。

◆ 略 歴

イリノイ州タンピコで、父ジョン・レーガンと母ネル・ウィルソンの間の2人の息子の2番目として生まれた。

1920年に一家はイリノイ州ディクソンに定住した。アイルランド系の父ロナルドは11歳のときにプロテスタント「主流派」のディサイプル教会で洗礼を受け、プロテスタントとなる。幼少の頃のレーガンは教会によく通い、やがて信徒を前に説教をするようになり、後年の彼の演説力が培われた。

1924年にディクソンのディクソン高校に入学。

1926年、ディクソンの北5kmにあるローウェル公園に沿って流れるロックリバーでのライフガードが初めての仕事だった。7年間の夏季勤務中、77人を溺死から救ったとのことである。

イリノイ州のユーリカ大学に1928年に入学し、経済学と社会学を専攻し、1932年に卒業した。

◆ 映画俳優

幼い頃より話術と演技に才能があり、後にそれをさらに発展させ、シカゴの大リーグチーム・シカゴ・カブスのラジオアナウンサーになった。

レーガンはハリウッドで映画俳優としての経歴を持っている。映画初出演は『Love is On the Air』(1937年)、1939年末までに19本の映画に出演した。

1940年には『Knute Rockne All American』で、大学フットボールのスター選手で25歳で早世したジョージ・ギップ(愛称:ギッパー)の役を演じ、そこから彼はギッパーという愛称を得た。

アメリカでは次代のハリウッドを代表する二枚目スターとしての将来を嘱望されていたが、同時に俳優ユニオンなどでも要職に就くなどの政治的活動に若い時期から携わっていた。

1950年代の終わり頃には映画に出ることは少なくなり、テレビショー『General Electric Theater』の司会など、当時最新のメディアとして人気を集めていたテレビへとその活動の場を移していった。『Death Valley Days』の司会が、彼の俳優としての最後の仕事である。

日本で知られている出演作に『カンザス奇兵隊』(1940年)、『殺人者たち』(1964年 ドン・シーゲル監督)などがある。

◆ 第40代大統領

1981年1月21日に大統領に就任したレーガンは、1984年の再選をかけた大統領選挙でも民主党候補のモンデール前副大統領に空前の地滑り的大勝を果たした。

1989年まで在任、アイゼンハウアー(在任 1953年~1961年)以来久々に2期8年の任期を満了した大統領となった。

◆ 大統領時の概要

1期目はアメリカ経済の回復を政策目標に掲げ、「レーガノミックス」に代表される大幅減税と積極的財政政策でアメリカに長期の好景気をもたらした。

外交面では、強硬策を貫き、ベトナム戦争以来の本格的な外国への武力侵攻をグレナダに対して行う等、「強いアメリカ」を印象づけた。

しかし2期目はイラン・コントラ事件に代表される数々のスキャンダルに見舞われ、レーガン政権の体質に対して各方面から辛辣な批判が目立った。

レーガンはデタントを否定し、ソビエト連邦を「悪の帝国」と批判。

「力による平和」戦略によってソ連及び共産主義陣営に対抗する一方、「レーガン・ドクトリン」を標榜し世界中の反共主義運動を支援した。

前者はソ連の解体、後者はベルリンの壁崩壊に代表される東側諸国の民主化に繋がり、レーガンは冷戦の平和的な終結に貢献した。

◆ 健 康

1985年夏、レーガンの大腸にできていたポリープが生体組織検査の結果悪性であることが判明すると、レーガンは直ちにポリープ切除手術を受けることになった。

手術は全身麻酔を必要とするという医師団の診断を受けて、大統領府では1947年の大統領継承法と1967年の合衆国憲法修正第25条の規定に依り、大統領権限の一時的移譲を初めて行うこと決定した。

手術は7月13日の朝方から始まり、ブッシュ副大統領がこの間約8時間にわたって大統領権限を代行している。

1987年1月5日には前立腺癌の摘出手術も受けているが、この際は局所麻酔で済ませることができたため権限移譲は行われなかった。

しかし当時レーガンは76歳に迫る高齢で、「任期をあと2年も残して果たしてこの先大丈夫なのか」という懸念が全米に広がった。

しかし、レーガンの健康状態は至って良好だった。1989年1月20日に77歳11ヵ月という大統領としては史上最高齢でホワイトハウスを後にしたときには、多くのメディアが「これなら3期目でもいけたかもしれない」などという賛辞を贈るほどだった。

◆ アルツハイマー病

レーガンはホワイトハウスを去ってから4年後の1992年、アルツハイマー病と診断された。

病は年を追う毎に進行し、彼は人前に出ず、静かでプライベートな環境で余生を送らざるを得なくなった。

1994年11月5日、彼は国民にあてた手紙という形で、アルツハイマー病の病状を公表した。

レーガンの最後のメッセージとなった、『I now begin the journey that will lead me into the sunset of my life. (私は今、私の人生の黄昏に至る旅に出かけます)』という言葉は、多くの人々に深い感銘を与えた。

2001年に南カリフォルニアの自宅で転倒した際に腰を骨折してほとんど寝たきりとなってからは、彼の健康状態はさらに不安定になった。

レーガンがアルツハイマー病を実際に発病した時期については諸説あり、在任中には既に患っていたとする説もある。

次男のロンは2011年出版の回顧録の中で、1987年のウォルター・モンデール前副大統領との討論会において父ロナルドの異変に気がついたと指摘している。

一方で大統領在任中の主治医や側近、またロナルド・レーガン大統領財団は在任中には病気の兆候はなかったとしている。

2004年6月5日、長い闘病の末、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス市の私邸で死去した。93歳没。

特記事項

◆ レーガン元米国大統領 / 結婚と離婚

1940年に女優のジェーン・ワイマンと結婚した。ワイマンとの間には長女モーリーン(1941年生)と養子に迎えた長男マイケル(1945年生)がいる。1947年にも娘が生まれたが4ヵ月の早産で翌日に死去している。

しかし、レーガンの政治への指向が増すと、あくまでも女優であり続けたいとするワイマンとの関係が悪化し、1948年に離婚した。なお、レーガンは離婚歴のある唯一のアメリカ大統領である。

1952年には女優のナンシー・デイビスと再婚し、カリフォルニア州のパシフィック・パリセーズに住居を構えた。ナンシー夫人との間には次女パトリシア・アン(1952年生)と次男ロン(1958年生)がいる。

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