追悼の森 =高松宮妃 喜久子さま薨去=

I was thunderstruck at the news of his death

Top Page    有名人訃報一覧【た~ち~つ~て~と】 著名人訃報一覧【た~ち~つ~て~と】  著名人訃報一覧 2004年 著名人訃報一覧 Ver.35
nagomi画像
Smart Phone
スマートフォンサイト訃報

高松宮宣仁親王妃  喜久子 さま薨去

2004年(平成16年)12月18日 薨去 享年92歳

高松宮妃喜久子写真  

高松宮宣仁親王妃  喜久子 さま薨去

天皇陛下の叔母にあたり、がん征圧事業などに力を注いだ 高松宮妃 喜久子(たかまつのみやひ きくこ)さま が2004年(平成16年)12月18日午前4時24分、敗血症のため東京都中央区の聖路加国際病院で薨去した。92歳だった。

最後の征夷大将軍で後に公爵となった15代将軍徳川慶喜の孫。1930年(昭和4年)19歳の時に高松宮宣仁親王と結婚。2003年(平成15年)に乳がんが発見され、翌年2月にはその摘出手術を受けていた。

人物 / 略歴

宣仁親王妃 喜久子(のぶひとしんのうひ きくこ、1911年(明治44年)12月26日 ~ 2004年(平成16年)12月18日)

旧名、徳川喜久子(とくがわ きくこ)。日本の皇族で、高松宮宣仁親王の妃。

公爵徳川慶久の次女で、母は有栖川宮威仁親王の第二王女である實枝子女王。身位は親王妃。お印は初めが亀(かめ)、結婚後は撫子(なでしこ)。

◆ 家 系

貴族院議員、公爵 徳川慶光(1913年 ~ 1993年)は弟。文筆家の榊原喜佐子(1921年 ~ )は妹。父方の祖父は最後の征夷大将軍で後に公爵となった徳川慶喜。祖父の名の慶喜と、父の名の慶久それぞれ一文字を取り喜久子と名づけられた。

秩父宮妃勢津子とは、義姉妹でありながらも、実は、四従姉妹でもある(勢津子の祖父松平容保と喜久子の祖父徳川慶喜がはとこ同士である為。容保の祖父松平義和と慶喜の祖父徳川治紀が兄弟)。

◆ 生 涯

母の實枝子は、威仁親王の3人の子女の間でただ一人、夭逝を免れた存在であった。そのため、1913年(大正2年)より有栖川宮の祭祀を継承した高松宮宣仁親王の妃に、有栖川宮の血統をもつ喜久子が早くから擬されていた。

1929年(昭和4年)、女子学習院本科を卒業。翌年2月4日、19歳の時に宣仁親王と結婚した。

その後、昭和天皇の名代として14ヶ月にわたり欧米を周遊訪問した。

1930年(昭和5 年)には日本赤十字社名誉社員の称号を受け、1949年(昭和24年)からは同社の名誉副総裁に就任した。

宣仁親王とは半世紀余りにわたって連れ添ったが、子供はなく、1987年(昭和62年)2月3日に死別する。

その6年後に発見された親王の日記は、1921年(大正10年)1月1日から1947年(昭和22年)11月にかけての、皇族および海軍の貴重な資料であった。

宮内庁から出版自粛の要請があるも、喜久子妃の決断で中央公論社より「高松宮日記」が刊行された。

実母の實枝子を結腸癌で亡くしたのを機に癌の撲滅に関わるようになる。1968年(昭和43年)には、高松宮妃癌研究基金の設立に関与するなど、生涯を通して癌撲滅に関与した。しかし、夫である宣仁親王を肺癌で失い、さらに晩年は自らも癌と闘うこととなった。

そのほか、ハンセン病患者の救済運動や、日仏会館の総裁として日仏交流にも尽くしたことが業績として挙げられる。

喜久子妃は2003年(平成15年)に乳癌が発見され、翌年2月にはその摘出手術を受けていた。

一時体調は安定し6月には退院したが、8月に再度入院し10月18日には人工透析のための手術を受けていた。

2004年(平成16年)12月18日午前4時24分、聖路加国際病院で敗血症のため92歳で薨去した。

特記事項

喜久子妃の亡骸は豊島岡墓地にて斂葬の儀が行われたのち、同墓地内の宣仁親王と同じ墓に葬られた。

高松宮は後継となる子孫がいないので、同家が祭祀を継いだ有栖川宮ともども、これで系統が途絶えることとなった。

◆ 喜久子妃 / 著作

◇ 『菊と葵のものがたり』(中央公論社、1998年) ISBN 4120028399
◇ 『菊と葵のものがたり』(中公文庫、2002年) ISBN 4122039592

◆ A Related Words :
高松宮妃喜久子様/高松宮妃喜久子さま/高松宮妃喜久子 死去/宣仁親王妃 喜久子/宣仁親王妃 死去/宣仁親王妃 撫子/高松宮妃喜久子 プロフィール/高松宮妃喜久子 略歴

Page Top

スマートフォン / PC サイト