追悼の森 =三沢光晴さん死去=

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プロレスラー  三沢光晴 さん死去

2009年(平成21年)6月13日 死去 享年46歳

三沢光晴写真  

プロレスラー  三沢光晴 さん死去

プロレス団体ノアの社長でレスラーとして活躍した 三沢 光晴(みさわ みつはる)さんが2009年(平成21年)6月13日夜、試合中の事故のため死去した。46歳だった。

同日、広島県立総合体育館で行われた試合中、齋藤彰俊のバックドロップを受けた後、意識不明、心肺停止状態に陥った。リング上で救急蘇生措置が施された後、救急車で広島大学病院に搬送されたが、午後10時10分に死亡が確認された。死因は頭部強打による頸髄離断(けいずいりだん)であると発表された。

人物 / 略歴

三沢 光晴(みさわ みつはる、1962年6月18日 ~ 2009年6月13日)

北海道夕張市に生まれる。本名は三澤 光晴。プロレスラー。

全日本プロレスのトップレスラーとして活躍した後、2000年にプロレスリング・ノアを旗揚げ。レスラー兼社長として同団体を牽引した。

◆ 略 歴

北海道夕張市に生まれる。父親は北海道炭礦汽船に勤務していたが、三沢が生まれて間もなく夕張炭鉱が閉山同然の状態となったため、一家は埼玉県越谷市へ転居した。

中学2年の時、担任の教師と母親にアマチュアレスリングの強い高校へ進学して基礎を学んでからの方がよいと説得され、足利工業大学附属高等学校に特待生として進学した。レスリング部に入部し、ハードな練習に明け暮れる日々を送った。

三沢は3年の時に国体(フリースタイル87kg級)で優勝するなど活躍したが、本人にとってアマチュアレスリングはプロレスラーになるための手段に過ぎず、競技自体を好きになることはなかった。

◆ 全日本プロレスに入門

高校卒業後の1981年3月27日、全日本プロレスに入団。同年8月21日に浦和競馬場正門前駐車場で行われた越中詩郎戦でデビューした。入門から5か月でのデビューは全日本プロレス史上最速であった。

◆ 2代目タイガーマスクとして活躍

1984年春、三沢は越中詩郎とともにメキシコへ遠征に出た。数か月が経ったある日、三沢は馬場に国際電話で「コーナーポストに飛び乗れるか」と問われ、飛び乗れると答えたところ帰国するよう命じられた。帰国後、三沢は馬場に2代目タイガーマスクとなるよう命令を受ける。

三沢は8月26日、ラ・フィエラ戦で2代目タイガーマスクとしてデビュー。

タイガーマスク時代の三沢は、初代タイガーマスク(佐山聡)が確立した華麗な空中技を受け継ぐ必要に迫られた。

空中技を多用したことで三沢の膝には負担がかかり、左膝前十字靱帯断裂を引き起こし、負傷箇所の手術を受けるため1989年3月から1990年1月にかけて長期欠場を余儀なくされた。

タイガーマスクとなった三沢は自己主張を強く行わなかったため、「口の重い虎戦士」と呼ばれた。

◆ 超世代軍・プロレス四天王の中心として活躍

1990年春、天龍源一郎が全日本プロレスを退団しSWSへ移籍、複数のプロレスラーが天龍に追随した(SWS騒動)。

騒動の最中の5月14日、三沢は試合中にタイガーマスクのマスクを脱ぎ、三沢光晴に戻ると同時にポスト天龍に名乗りを挙げた。

三沢は川田利明、小橋健太らとともに超世代軍を結成。1990年6月8日に「全日の『強さ』の象徴だった」ジャンボ鶴田とのシングルマッチで勝利を収め、1992年8月22日にはスタン・ハンセンを破って三冠ヘビー級王座を獲得するなど、超世代軍の中心レスラーとして活躍した。

1994年3月5日には全日本プロレスの象徴的存在であったジャイアント馬場からタッグマッチでフォール勝ちし、名実ともに同団体を代表するレスラーとなった。

◆ 全日本プロレスの社長に就任

全日本プロレスではジャイアント馬場の妻である馬場元子が会社の運営について大きな発言権を有し、試合会場での実務や対戦カードにまで口出しする状況が続いていた。

1998年には馬場に対し所属レスラーを代表して「元子さんには現場を退いてもらえないでしょうか」と直談判するなど、対立を深めていった。

1999年に馬場が死去すると、マッチメイクなど現場における権限を譲り受けていた三沢はレスラーの支持を受けて後継の社長に就任した。ただし馬場の死後3か月間もの間紛糾した末の人事であった。

経営に関する不透明な部分を目にするうちに全日本プロレスに対する不信感が募ってプロレスそのものに愛想が尽きかねない心境になり、そうなる前に退団した方がいいと思うようになった。

◆ プロレスリング・ノア設立~最期

2000年5月28日、臨時取締役会において三沢は社長を解任された。

三沢以外に9人いた取締役のうち5人が三沢に追随して退任するなど社内から三沢の行動に同調する者が続出、全日本プロレスを退団して新団体に参加するレスラーは練習生を含め26人にのぼった。

7月4日、新団体の名称は「プロレスリング・ノア」(由来は『創世記』に登場するノアの方舟)に決まったことが発表され、8月5日にディファ有明で旗揚げ戦が行われた。

それまで縁のなかったプロレス大賞MVPに当時史上最年長(45歳)で選出された。また2009年5月6日には潮﨑豪とのコンビで第2回グローバル・タッグ・リーグ戦の優勝を果たした。

晩年の三沢は頸椎に骨棘ができて下を向くことが困難になり、右目に原因不明の視力障害が起こるなど体力面の不安が深刻化。さらに肩、腰、膝にも慢性的な痛みを抱えていた。頚部は歯を磨いたり、ガウンの襟の部分が当たったり、寝返りを打つだけで痛みが走る状態にあった。

6月13日、三沢は広島県立総合体育館グリーンアリーナ(小アリーナ)で行われたGHCタッグ選手権試合に挑戦者として出場。試合中、齋藤彰俊の急角度バックドロップを受けた後、意識不明・心肺停止状態に陥った。リング上で救急蘇生措置が施された後、救急車で広島大学病院に搬送されたが、午後10時10分に死亡が確認された。46歳没。

三沢が意識を失う前にレフェリーの西永秀一が「動けるか?」と問い掛けた際に、「動けない」と応じたのが最後の言葉となった。

翌6月14日、広島県警広島中央署は、三沢の遺体を検視した結果、死因をバックドロップによって頭部を強打したことによる頸髄離断(けいずいりだん)であると発表した。

特記事項

三沢の後任の社長には田上明が就任し、2009年秋には三沢光晴追悼興行として「GREAT VOYAGE '09 in TOKYO」が9月27日に、「GREAT VOYAGE '09 in OSAKA」が10月3日に行われた。

記録として生涯一度もギブアップ(タップアウト)負けしたことのないレスラーとなった。

◆ 三沢 光晴 / プロレス大賞

◇ 1982年、新人賞
◇ 1985年、敢闘賞
◇ 1990年、殊勲賞
◇ 1991年、最優秀タッグチーム賞(パートナーは川田利明)
◇ 1992年、特別大賞
◇ 1993年、最優秀タッグチーム賞(パートナーは小橋健太)
◇ 1994年、最優秀タッグチーム賞(パートナーは小橋健太)
◇ 1995年、年間最高試合賞(川田利明&田上明 vs 三沢光晴&小橋健太
◇ 1997年、殊勲賞、年間最高試合賞(三沢光晴 vs 小橋健太)ダブル受賞
◇ 1998年、年間最高試合賞(三沢光晴 vs 小橋健太)
◇ 2003年、年間最高試合賞(三沢光晴 vs 小橋建太)
◇ 2007年、最優秀選手、年間最高試合賞(三沢光晴&秋山準 vs 小橋建太&高山善廣)
◇ 2009年、特別功労賞(死去後)

◆ 三沢 光晴 / 著書

◇ 三沢光晴、蝶野正洋『胎動 プロレス新世紀論』(アミューズブックス、1999年)ISBN 4906613438
◇ 『船出 三沢光晴自伝』(光文社、2000年)ISBN 4334972756
◇ 『理想主義者』(ネコ・パブリッシング、2004年)ISBN 4777050475

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