追悼の森 =森繁久弥さん死去=

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俳優  森繁久弥 さん死去

2009年(平成21年)11月10日 死去 享年96歳

森繁久弥写真  

俳優  森繁久弥 さん死去

俳優として多方面で活躍し、演劇界初の文化勲章を受章した 森繁 久弥(もりしげ ひさや)さんが2009年(平成21年)11月10日午前8時16分、老衰のため東京都内の病院で死去した。96歳だった。

2002年(平成14年)12月に滞在先の沖縄県で心筋梗塞(こうそく)で倒れ、一時危険な状態に陥ったが回復。その後は月に1回程度、医師の訪問診察を受け健康に気を配っていたが 今年7月22日に夏風邪を引き検査をかねて東京都内の病院に入院していたという。

人物 / 略歴

森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 ~ 2009年11月10日)森繁久弥とも表記される。

大阪府枚方市出身。俳優、コメディアン。最終期はアクターズセブン所属。身長171cm、体重78kg、血液型はB型。

◆ 略 歴

旧制第二高校教員、日本銀行、大阪市庁(現・大阪市役所)、大阪電燈等の重役職を経て後に実業家となった父・菅沼達吉(1858年 - 1915年)と大きな海産物問屋の娘であった母・馬詰愛江との間に出来た3人兄弟の末っ子。

江戸時代には江戸の大目付だった名門の出身だった。しかし久彌が2歳の時、父が死去。

母方の実家も色々と子細、経緯等があって7歳の時に母方の祖父の姓を継いで「馬詰」姓から「森繁」姓となった。

◆ 学生時代

堂島尋常高等小学校、旧制北野中学校、早稲田第一高等学院を経て1934年に早稲田大学商学部へ進学。この頃に萬壽子夫人(当時、東京女子大学の学生)と知り合う。

◆ 演劇の世界へ

1936年、必修とされていた軍事教練を拒否して大学を中退。長兄の紹介で東京宝塚劇場(現・東宝)の東京宝塚新劇団へ入団。

その後は日本劇場の舞台進行係を振出しに東宝新劇団、東宝劇団、緑波一座と劇団を渡り歩く。下積み時代は馬の足などしか役が付かなかった。

1939年、NHKアナウンサー試験に合格し満洲に渡る。満洲電信電話の放送局に勤務。満洲映画協会の映画のナレーション等を手掛ける。

1939年、長男(元俳優の森繁泉)誕生。

アナウンサーになったきっかけは「徴兵制度を避ける為。海外へ赴任出来る当時としては数少ない仕事であったから」と、後の著書に記している。

1945年、敗戦を新京で迎えソ連軍に連行されるなどして苦労の末、1946年11月に帰国。

戦後も劇団を渡り歩く。1949年、再建したばかりの新宿のムーラン・ルージュに入団。演技だけでは無くアドリブのギャグを混ぜて歌も歌うなど、他のコメディアンとは一線を画す存在として次第に注目を集める。

1950年、NHKがアメリカの『ビング・クロスビー・ショー』に倣ったラジオ番組『愉快な仲間』を放送。『愉快な仲間』は3年近く続く人気番組となった。この放送がきっかけで映画や舞台に次々と声が掛かり、一躍人気タレントとなった。

同年、新東宝『腰抜け二刀流』で映画初主演。

1952年、源氏鶏太原作のサラリーマン喜劇(河村黎吉主演『三等重役』)に要領のよい人事課長役で助演。後に河村が急逝したこともあって久彌が社長役として主演の「社長」シリーズへと発展する。

1953年からマキノ雅弘監督の『次郎長三国志』シリーズに三枚目の森の石松役で出演、シリーズ第8作の『海道一の暴れん坊』で無念の死を遂げるまで大活躍する。

テレビドラマでは、草創期から活躍した。テレビ放送が開始された1953年には、『半七捕物帳』(NHK)や『生と死の一五分間』(日本テレビ)に出演している。

1955年、豊田四郎監督の『夫婦善哉』に淡島千景と共に主演。この映画での演技は、それまで数々の映画に出演して次第に確立していった久彌の名声を決定的なものにした。

1959年の第10回から1965年の第16回まで、7年連続で歌手としてNHK紅白歌合戦に連続出場。

1960年代、『知床旅情』を作詞作曲し自ら歌うシンガーソングライターとしての活動もしていた。同曲は1970年に加藤登紀子によってカバーされた。

ラジオやテレビでのトーク番組・バラエティ番組等では、その独特な話り口が「森繁節」として親しまれた。

舞台では1959年より「森繁劇団」を結成し、持続的に演劇活動を行う。またミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』は900回にわたってユダヤ人・テヴィエ役を演じ、彼の代表作となった。

1982年、佐々木孝丸の後任として日本俳優連合の理事長に就任。

1986年、早稲田大学の卒業式に記念講演の講師として招かれた際、大学から卒業証書を受け正式に卒業を認められた。

◆ 晩 年

1989年に妻の杏子(本名:満壽子)、1999年に長男の泉に先立たれた。

長男が行っていた事業清算のため世田谷区船橋にあった大邸宅を売却、等価交換の形で跡地に建設されたマンションのワンフロアに転居、家族及び身の回りの世話をする事務所関係者と住んでいた。

2002年12月、沖縄県で心筋梗塞で倒れ、一時危険な状態に陥ったが無事に回復し、映画「死に花」で復帰した。

2003年には90歳を迎えたことを機に、作家・演出家の久世光彦と『語り森繁、文は久世』の形で『大遺言書』を週刊新潮で連載を開始。後に単行本4冊にまとめられた。

2006年3月に22歳年下の久世が急逝。同3月6日、健康上の理由から周囲が止めたがそれ押し切り、久世の通夜に参列。焼香後一旦は帰路に着くも再び会場へ引き返し焼香を行った。この通夜で「どうして僕より先に逝っちゃうんだよ・・・」と嘆き哀しむ姿が森繁が公の場へ現れた最期の姿となった。

2007年、日本俳優連合の理事長の地位を退き、名誉会長になった。

2009年8月、同年7月に風邪を引きそのまま8月3日に至るまで入院中である事が発表された。発熱などの重い症状は7月中に回復したが、痰が出る等の症状が治まらない為に大事をとって退院せずに病院で経過を診る措置がとられた。

その後、9月15日に「第十一回世田谷フィルムフェスティバル」において開かれた『名優・森繁久彌展』へメッセージを寄せ、その中で入院の件にも「皆さんに多大なご心配をおかけしましたが、私自身はおだやかに秋をむかえております」と触れた。

11月10日午前8時16分、東京都内の病院で老衰のため死去。96歳没。

特記事項

12月8日、日本政府は大衆芸能の発展に尽くし、多くの人材を育てた生前の功績を多とし、森繁久彌に対し、従三位に叙すると同時に国民栄誉賞を授与する閣議決定を行った。 国民栄誉賞の受賞は森光子以来18人目で、俳優での国民栄誉賞の受賞は、長谷川一夫、渥美清、森光子に次いで4人目。

2010年11月の一周忌に当たり、東京都世田谷区が小田急電鉄千歳船橋駅から旧森繁久彌私邸へ抜ける世田谷区道を『森繁通り』と命名することを決定した。

◆ 森繁久弥 / 叙位 ・ 叙勲 ・ 褒章

◇ 紺綬褒章(1964年)
◇ 紫綬褒章(1975年)
◇ 勲二等瑞宝章(1987年)
◇ 文化勲章(1991年)【大衆芸能演劇者として史上初】
◇ 従三位(2009年)

◆ 森繁久弥 / その他の表彰

◇ 菊池寛賞(1974年)
◇ 紀伊國屋演劇賞(1976年)
◇ 芸術選奨文部大臣賞(1979年)
◇ 第1回都民文化栄誉章(1983年)
◇ 大阪府枚方市名誉市民(1984年12月)
◇ 文化功労者(1984年)
◇ 第7回日本アカデミー賞優秀主演男優賞(1984年)
◇ 早稲田大学芸術功労者表彰(1985年)
◇ 第15回日本アカデミー賞協会栄誉賞(1992年)
◇ 日本映画批評家大賞ゴールデン・グローリー賞(1995年)
◇ 東京都名誉都民(1997年)
◇ 日刊スポーツ映画大賞特別賞(2009年)(没後追贈)
◇ 国民栄誉賞(2009年)(没後追贈)
◇ 第33回日本アカデミー賞協会栄誉賞(2010年)(没後追贈)

◆ 森繁久弥 / 役職

◇ 日本俳優連合名誉会長
◇ 「水と緑の館」(岐阜県海津市)名誉館長
◇ 芸能文化人ガンクラブ会長(初代)
◇ 社団法人「あゆみの箱」会長
◇ 関東小型船安全協会会長(初代)

◆ 森繁久弥 / 出演CM

◇ 全日本空輸
◇ 興和 キャベジンコーワ
◇ コカ・コーラ
◇ シーメンス 補聴器
◇ 三井不動産 レッツ
◇ 佐渡汽船(ラジオのみ)
◇ 松下電器産業(現:パナソニック)ナショナル マックロード
◇ 第二電電(現:KDDI)
◇ 日本IBM(AS/400)
◇ 奥の松酒造(ビンのラベルの書)

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