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元中日監督  与那嶺 要 さん死去

2011年(平成23年2月28日 死去 享年85歳

与那嶺 要写真  

元中日監督  与那嶺 要 さん死去

プロ野球 巨人、中日でプレーし、中日監督も務めた 与那嶺 要(よなみね かなめ)さんが2011年(平成23年)2月28日午後時45分(日本時間3月1日)、前立腺がんのため米ハワイ州ホノルルのシニアホームで死去した。85歳だった。

ハワイ・マウイ島出身。米国仕込みの激しいプレーで日本の野球を変えた一方、その温和な性格は多くの野球人に愛された。葬儀、告別式はホノルル市内で行う。喪主は長男のポールさん。後日、東京都内でお別れ会を開く予定。

人物 / 略歴

与那嶺 要(よなみね かなめ、1925年6月24日 ~ 2011年2月28日)

アメリカ合衆国ハワイ州マウイ島生まれ。本名はウォレス・カナメ・ヨナミネ(Wallace Kaname "Wally" Yonamine)。

プロ野球選手(外野手)・監督・打撃コーチ。愛称はウォーリー。父親は沖縄県、母親は広島県出身のハワイ移民日系2世。

◆ 略 歴

◆ アメフトから野球に

家業のサトウキビ畑で働く。俊足を買われフェリントン・ハイスクールから1947年に、アメリカンフットボールのサンフランシスコ・フォーティナイナーズ(当時はNFLとは別のAAFCというリーグに所属していた)に入団。

度重なる怪我に見舞われ現役続行を断念し、1950年に野球に転向、マイナーリーグAAA級サンフランシスコ・シールズ傘下のC級ソルトレイクシティ・ビーズに入団した。

◆ 現役時代

1951年に、読売ジャイアンツのスカウトを受け、シーズン途中に来日、入団。その年規定打数(今で言う規定打席)不足ながら打率3割をマーク。

1952年から1960年まで首位打者3回、最高殊勲選手(MVP)1回など大活躍し、第2期巨人黄金時代を支えた。

1960年オフに巨人を自由契約となり、中日ドラゴンズに移籍。中日で2年間プレーし、1962年に引退。

◆ 引退後

引退後は、1963年から1966年まで中日打撃コーチ、1967年から1969年まで東京オリオンズ・ロッテオリオンズ打撃コーチ。1970年から1971年まで中日一軍ヘッドコーチを務め、1972年に監督に昇格。

1974年に古巣巨人のV10を阻止し、1954年以来となる20年ぶりのリーグ優勝を果たした。1977年限りで退任。

1988年シーズンを最後にアメリカ合衆国へ帰国。以降故郷のハワイ州で悠々自適の日々を送っていたが、2006年にプロ野球マスターズリーグ参加を機に18年ぶりに再来日した。

2009年にはオリックス・バファローズの招きで同年7月16日の対ロッテ戦の始球式を行うなど80歳を超えても元気な姿を見せたが、前立腺がんのため2011年2月28日にハワイ州ホノルルのシニアホームで死去。享年85歳。

特記事項

1998年にハワイ高校体育協会に20万ドル寄付した。

アメリカ仕込みのスライディング、タックルなどの激しいプレースタイルは、当時「スカートをはいたお嬢様野球」と揶揄された日本プロ野球に新風を吹き込んだ。

出身地であるハワイ州のホノルル国際空港内には、功績を称え、サンフランシスコ・フォーティナイナーズや巨人の選手時代、中日監督時代のユニフォームなどが展示されている。

1994年に野球殿堂入り。日本プロ野球で活躍したアメリカ人選手は数多いが、その中でも殿堂入りを果たしたのは2011年3月現在この与那嶺ただ一人である。

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