追悼の森 =浅田匡子さん死去=

I was thunderstruck at the news of his death

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浅田真央選手の母親 浅田匡子 さん死去

2011年(平成23年)12月9日 死去 享年48歳

浅田匡子写真  

フィギュアスケート 浅田真央選手の母親 浅田匡子 さん死去

フィギュアスケートの浅田真央、舞さん姉妹の母親、浅田 匡子(あさだ きょうこ)さんが2011年(平成23年)12月9日の早朝、肝硬変のため名古屋市内の病院で死去した。48歳だった。

浅田真央は8日、体調を崩していた母親の病状悪化を理由に遠征先のカナダで行われていたグランプリ(GP)ファイナルを欠場すると発表し、帰国の途に就いていた。2011年(平成23年)夏から病状が悪化し、入退院を繰り返していたという。

人物 / 略歴

ジャパン・タイムスで よく真央選手の記事を書いているジャック・ギャラガーさんが浅田匡子さんの訃報に接し、追悼のコラムがホームページへ掲載された。

※ 超ウルトラCの拙訳ですが、大まかな雰囲気的解釈に役立てて頂ければ幸いです。ご了承ください。

◆ ザ・ジャパン・タイムス 追悼文

◆ Mao was blessed with a mother who gave it her all
= By JACK GALLAGHER =

(真央は、自身の全てを捧げた母親に恵まれた) = ジャック・ギャラガー =

2011年12月14日  掲載サイト : The Japan Times

ここ数日間はとても辛かった。多くのみなさんも同じ気持だったと思っています。

金曜日の夜遅く、私たちは、浅田真央の母、匡子さんが48歳という あまりにも若い年齢で亡くなられたことを知らされた。

日本のスケート界内部では、真央の母親の容体がここしばらくよくないことが分かっていたようだが、大多数の人々には衝撃の知らせとなった。

私は、真央と母親を、真央がまだ15歳の天才的な子どもだった頃から知っているから、このことについて長々と感情的に書きたくはない。

若くして亡くなった匡子さんに対する悲しみと同時に、真央の将来を懸念する気持ちが重なった。
彼女のファンや多くの人々も、そのことを案じたことと思う。

このかけがえのない存在を誰に置き換えることができるだろうか?

悲劇に良い時期などはないが、真央は新しいフォームを再発見した時期に、母親の死に直面した。

彼女の、これまでのスケート人生の中で、様々な課題を乗り越え、克服してきたように、真央の戦いとして克服してくれることを期待している。しかし、今回の現実は、彼女がこれまで直面した多くのこととは全く異なる種類のものだ。

トリプルアクセルを跳べないということと、身近な人を亡くすということは全く別の種類のものなのだから。

私と、真央と彼女の母親との関係が始まったのは、2006年初めのことだった。真央が「2005年 日本トップアスリート賞」を受賞した時のことだ。東京で行われた「海外スポーツライター協会」主催の夕食会に真央と母親が出席した。

このイベントは急遽企画されたにもかかわらず、その夜、多くの著名なゲストが次々に訪れ、これまでにない記録的な数となった。

夕食会の終わりには、真央の母親は、外国からの出席者たちから真央に向けられた暖かな愛に、明らかに感銘を受けた姿を見ることが出来た。

真央と母親は、私の3歳の娘、Viennaを特に気にかけてくれた。「あなたの娘さんはお人形のようにかわいいですね」といってくれた。

その夕食会は月曜の夜だった。その週の土曜日に私がオフィスにいると、配達人が巨大な箱を担いで現れました。「これは何だろう?」と思っていると、彼は出荷伝票を見て「浅田真央さんからです」と言った。「本当に?」と私は答えた。

私は帰りの電車の中で、その大きな荷物を引きずるようにして持ち帰ったのを今も覚えている。ようやく家のドアにたどり着いて、それを放り入れ、それが誰からの贈り物であるかを告げた時、娘は飛び跳ねて大喜びしていた。

娘が箱を開けて、中から大きなたくさんの動物のぬいぐるみを見つけた時、彼女の喜びは陶酔感に変わった。3歳の娘にはこの上ない幸せである。

娘がぬいぐるみに囲まれている間、私は真央と母親の細やかな心遣いに完全に圧倒されていた。

夕食会に出席するためにわざわざ名古屋から来てくれただけでも十分に満足なのに「なんという家族だ」としか考えられなかった。

そうやって私たちの付き合いは始まった。その時から、2度の世界チャンピオンと、オリンピック銀メダリストになるのを見届けるとともに、私たちは折に触れてやりとりを行っていた。

浅田匡子について、強く印象に残っていることは、彼女が明らかに自分の娘を世界的なスケーターにしたいと望んでいたことだ。彼女はそれを、いつも冷静に節度のある態度で行っていた。我々は長年にわたって「ステージママ」について多くの話を耳にしてきたが、彼女はそのような方法ではなかった。

彼女は娘のためにできる限りの多くのことをやった。真央を幼い頃から試合に出し、コーチに手紙を書き、真央と姉の舞を一年以上海外に住まわせたりさえした。

匡子からの手紙を受け取るたび、彼女は常に「日本のスケートについて英語の記事にしてくれてありがとうございました。」と必ず書いてあった。私にとってそのようなコメントは大いに意味のあるものだった。

私が彼女を最後に見たのはちょうど1年前、真央が新横浜スケートセンターで練習していた日のことだった。彼女は体調が悪そうに見えた。私はあの時彼女に会うのがこれが最後だと知っていたらと思う。

私たちの最後のやりとりはそのひと月前、私の娘(当時8歳)が真央のバンクーバー オリンピック後に、その活躍を讃える手紙を書いた時のことだ。

その数週間後、我が家の玄関に荷物が届けられた時、私はその手紙のことは殆ど忘れていた。

その中には、彼女の母親から私の娘のためにたくさんのお菓子や、ノートなどが入っていた。その中のひとつは、真央がスケートをしているネジ巻き式のオルゴールだった。それは私たちの自宅の目立つところに飾ってある。

私の家族と浅田家とはこのような関係のにもかかわらず、私は決してそれを記事には影響させなかった。必要であれば批判をし、称賛すべきと思えばそのように配信し報道してきた。真央と母親は、それが私の仕事の一部であることを理解していた。

生涯に人は何を遺したかで判断するならば、浅田匡子は金メダルを獲得するだろう。

多くの選手や、若い人達が愚かに振る舞うこともある現在において、彼女の遺したものは、紛れも無く穢れなく育った二人の美しい娘である

私にとってはそれがすべてだ。スケート界において子供を育てることは容易ではない。しかし、我々が見てきたとおり、彼女はそれを二人も成し遂げた。

真央は私の知る中で最も愛されているアスリートだ。そして私は同じように彼女を愛する多くの人を見てきた。日本国内と海外からも寄せられた彼女に対する愛情の発露は本当に素晴らしかった。それは人のもっとも美しい姿を表す瞬間だった。

このような若い年齢で母親を失った彼女の傷は決して消えることはないだろうが、真央がそれでも進んでいく不屈の精神を見つけてくれることを期待している。

全日本選手権までに2週間を切っている。真央は出場する予定だ。私はこれが彼女にとって立ち上がるきっかけになればと願っている。

賢者は言った。「人生の20%は何が起きたかで決まる。そして80%はそれに対してどう行動したかで決まる」
これ以上の言葉は他にはないだろう。

2011年12月14日 The Japan Times

特記事項

夫の浅田敏治氏は、浅田真央のマネジメント会社を通じてコメントを発表した。

■ コメント

「この度は、皆様に大変ご心配をおかけしております。本来なら、故人が生前お世話になった皆様にも最後のお別れをさせていただかなければならないところ、誠に勝手ながら、生前からの故人の強い希望で、葬儀は家族だけで執り行わさせていただきます。舞も真央も、母のやすらかに眠っているような顔を見て、やっと苦しかった闘病生活が終わったことを自分たちなりに納得し、今は気丈にしています。今後とも、娘たちを温かく見守っていただけますようお願いいたします。」

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