追悼の森 =新藤兼人さん死去=

I was thunderstruck at the news of his death

Top Page    有名人訃報一覧【さ~し~す~せ~そ】 著名人訃報一覧【さ~し~す~せ~そ】  著名人訃報一覧 2012年 著名人訃報一覧 Ver.39
nagomi画像
Smart Phone
スマートフォンサイト訃報

映画監督、脚本家  新藤兼人 さん死去

2012年(平成24年)5月29日 死去 享年100歳

新藤兼人写真  

映画監督、脚本家  新藤兼人 さん死去

日本映画界の現役最長老監督で、文化勲章受章者の 新藤 兼人(しんどう かねと)さんが2012年(平成24年)5月29日午前9時24分、老衰のため東京都港区の自宅で死去した。100歳だった。

映画「原爆の子」や「裸の島」など多くの社会派の作品で、国際的に高い評価を受けた。2002年(平成14年)に文化勲章を受章した。先月22日に100歳を迎え、誕生会に集まった映画人を前に「これが最後の言葉です。どうもありがとう。さようなら」と挨拶をしていた。

人物 / 略歴

新藤 兼人(しんどう かねと、1912年4月22日 ~ 2012年5月29日)

広島県佐伯郡石内村(現:広島市佐伯区五日市町)に生まれる。本名は新藤 兼登(読み方同じ)。映画監督、脚本家。

近代映画協会会長。広島県名誉県民、広島市名誉市民、広島県三原市名誉市民。

日本のインディペンデント映画の先駆者である。

◆ 略 歴

1912年、広島県佐伯郡石内村(現:広島市佐伯区五日市町)に生まれる。

1934年、京都へ出る。新興キネマ現像部でフィルム乾燥の雑役から映画キャリアをスタートさせる。

家が近所だった落合吉人が監督に昇進し、脚本部に推薦され『南進女性』で脚本家デビュー。

1942年、情報局の国民映画脚本の公募に応募、佳作に終わる。当選は東宝の助監督・黒澤明の『静かなり』であった。

1944年4月、脚本を1本も書かないうちに召集され二等兵として呉海兵団に入団。

1945年、宝塚海軍航空隊で終戦。

同年秋書いた『待帆荘』がマキノ正博によって『待ちぼうけの女』(1946年)として映画化され、1947年のキネマ旬報ベストテン4位となり初めて実力が認められた。

1947年、吉村公三郎と組んで『安城家の舞踏会』を発表。大ヒットしキネマ旬報ベストテン1位も獲得、シナリオライターとしての地位を固めた。

その後は吉村とのドル箱コンビで『わが生涯のかゞやける日』(1948年)などのヒット作を連発。木下惠介にも『結婚』、『お嬢さん乾杯!』を書く。

1950年、松竹を退社して独立プロダクションの先駈けとなる近代映画協会を吉村、殿山泰司らと設立。

1951年、『愛妻物語』で39歳にして宿願の監督デビューを果たす。

1952年、原子爆弾を取り上げた映画『原爆の子』を発表。翌1953年、カンヌ国際映画祭に出品。各国で物議を醸したが世界で反響を呼び、チェコ国際映画祭平和賞、英国フィルムアカデミー国連賞、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞など多くの賞を受けた。

一方私生活では新藤には妻子がいたものの、この頃より主演の乙羽と愛人関係になる。

以降は自作のシナリオを自らの資金繰りで監督する独立映画作家となり、劇団民藝の協力やカンパなどを得て数多くの作品を発表。

放射能汚染を題材とした『第五福竜丸』、『さくら隊散る』、連続拳銃発砲事件の永山則夫を題材にした『裸の十九才』、家庭内暴力に材を取った『絞殺』、死と不能をテーマにした『性の起源』、老いをテーマとした『午後の遺言状』など社会に問題提起を投げかける作品を発表。

また、大手映画会社の企画作品の脚本をも多数手がけた。

妻を亡くした後、1978年に愛人で同志だった乙羽信子と入籍し、その後『午後の遺言状』が乙羽との遺作となった。

70年以上の映画人生で、世界最長老の映像作家のひとりである事で知られる。また、池広一夫、神山征二郎、千葉茂樹、松井稔、金佑宣、田代廣孝、田渕久美子ら多くの門下生を出した。

長年の映画製作に対して1996年に第14回川喜多賞、1997年に文化功労者、2002年に文化勲章を授与された。3度グランプリを受賞したモスクワ国際映画祭では、2003年に特別賞を受賞している。

また、映画を通じて平和を訴え続けた功績により2005年に谷本清平和賞を受賞。「多くの傑作映画を世に送り出し、日本最高齢現役監督として映画「一枚のハガキ」を完成させた」として、2011年に第59回菊池寛賞を受賞。

2010年の第23回東京国際映画祭表彰式で『一枚のハガキ』を監督引退作とすることを公表したが、まだ作りたい気持ちも表した。晩年は、高齢で移動に車いすが欠かせなくなっていた。

2012年4月22日、100歳を迎え、東京都内で誕生会が開かれ、集まった映画人を前に「これが最後の言葉です。どうもありがとう。さようなら」と挨拶した。

2012年5月29日午前9時24分、老衰のため東京都港区の自宅で死去した。享年100歳。

特記事項

次男の新藤次郎は映画プロデューサー及び近代映画協会社長。孫の新藤力也はDDTプロレスリングのリング・アナウンサー兼広報。新藤風は映画監督である。

◆ 新藤兼人 / 主な監督作品

◇ 1951年 - 『愛妻物語』 - キネマ旬報ベストテン10位
◇ 1952年 - 『原爆の子』 - カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭グランプリ、エディンバラ国際映画祭脚本賞・名誉賞、英国アカデミー賞国連平和賞、メルボルン国際映画祭グランプリ、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞、フランス映画愛好家連盟賞

◇ 1953年 - 『縮図』(原作:徳田秋声) - キネマ旬報ベストテン10位
◇ 1954年 - 『どぶ』
◇ 1955年 - 『狼』
◇ 1956年 - 『銀心中』(原作:田宮虎彦)
◇ 1957年 - 『海の野郎ども』 - 石原裕次郎主演作。船に乗ってやって来た外国人労働者との軋轢と交流を描く
◇ 1958年 - 『悲しみは女だけに』
◇ 1959年 - 『第五福竜丸』 - キネマ旬報ベストテン8位
◇ 1959年 - 『花嫁さんは世界一』 - 東宝製作であり、フランキー堺、雪村いづみ主演により日系米国人青年の花嫁探しを描いた。
◇ 1960年 - 『裸の島』 - モスクワ国際映画祭グランプリ、メルボルン国際映画祭グランプリ、リスボン映画祭銀賞、ベルリン国際映画祭セルズニック銀賞、諸国友好のための親善映画祭グランプリ、マンハイム映画祭グランプリ、宗教と人間の価値映画祭国際ダグ・ハマーショルド賞、キネマ旬報ベストテン6位

◇ 1962年 - 『人間』(原作:野上弥生子) - 文部省芸術祭文部大臣賞
◇ 1963年 - 『母』 - 毎日芸術賞、キネマ旬報ベストテン8位
◇ 1964年 - 『鬼婆』
◇ 1965年 - 『悪党』(原作:谷崎潤一郎) - キネマ旬報ベストテン9位
◇ 1966年 - 『本能』 - キネマ旬報ベストテン7位
◇ 1967年 - 『性の起原』
◇ 1968年 - 『強虫女と弱虫男』
◇ 1968年 - 『藪の中の黒猫』
◇ 1969年 - 『かげろう』 - キネマ旬報ベストテン4位、文化庁芸術祭優秀賞
◇ 1969年 - 『触角』
◇ 1970年 - 『裸の十九才』 - モスクワ国際映画祭金賞、キネマ旬報ベストテン10位
◇ 1972年 - 『鉄輪』
◇ 1972年 - 『讃歌』(原作:谷崎潤一郎)
◇ 1974年 - 『わが道』 - キネマ旬報ベストテン6位
◇ 1975年 - 『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』 - キネマ旬報ベストテン1位・監督賞
◇ 1977年 - 『竹山ひとり旅』 - モスクワ国際映画祭監督賞・ソ連美術家同盟賞、キネマ旬報ベストテン2位
◇ 1977年 - 『ドキュメント8.6』 - テレビドキュメンタリーとして製作。
◇ 1979年 - 『絞殺』 - ヴェネツィア国際映画祭、乙羽信子「主演女優賞」
◇ 1984年 - 『地平線』
◇ 1986年 - 『落葉樹』
◇ 1986年 - 『ブラックボード』
◇ 1988年 - 『さくら隊散る』 - キネマ旬報ベストテン7位
◇ 1992年 - 『ぼく東綺譚』 - キネマ旬報ベストテン9位
◇ 1995年 - 『午後の遺言状』 - モスクワ国際映画祭ロシア批評家賞、キネマ旬報ベストテン1位、日本アカデミー賞最優秀作品賞
◇ 1999年 - 『生きたい』 - モスクワ映画祭グランプリ・国際批評家連盟賞、ロシア批評家賞
◇ 2000年 - 『三文役者』 - モントリオール映画祭特別グランプリ、キネマ旬報ベストテン6位
◇ 2003年 - 『ふくろう』 - モスクワ映画祭功労賞
◇ 2008年 - 『石内尋常高等小学校 花は散れども』
◇ 2011年 - 『一枚のハガキ』 - 第23回東京国際映画祭審査員特別賞、第36回報知映画賞特別賞、キネマ旬報ベストテン1位

◆ A Related Words :
新藤兼人 乙羽信子/新藤兼人 作品/新藤兼人 絞殺/新藤兼人 告別式/ベニチオデルトロ 新藤兼人/新藤兼人 心/人間 新藤兼人/新藤兼人賞/一枚のハガキ 新藤兼人/新藤兼人 落葉樹/新藤兼人 プロフール/新藤兼人 略歴

Page Top

スマートフォン / PC サイト