追悼の森 =山口仙ニさん死去=

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被団協元代表委員  山口仙ニ さん死去

2013年(平成25年)7月6日 死去 享年82歳

山口仙ニ写真  

日本原水爆被害者団体協議会 元代表委員  山口仙ニ さん死去

長崎で被爆者救済の先頭に立った日本原水爆被害者団体協議会(被団協)顧問 で元代表委員の 山口 仙二(やまぐち せんじ)さんが2013年(平成25年)7月6日、肺炎のため死去した。82歳だった。

14歳の時、学徒動員先の長崎市の兵器工場で被爆、瀕死(ひんし)の重傷を負った。長崎原爆被災者協議会会長を務めたほか、被団協の代表委員を2010年(平成22年)まで29年間務め、語り部活動や核兵器廃絶運動に尽力した。1982年(昭和57年)にニューヨークで開かれた第2回国連軍縮特別総会で 被爆者代表として初めて演説した。

人物 / 略歴

山口 仙二(やまぐちせんじ、1930年10月3日 ~ 2013年7月6日)

長崎市に生まれる。反核平和運動家。

自らも長崎市で原子爆弾により重傷を負っている。

◆ 略 歴

1945年8月9日、長崎県立長崎工業学校1年時の14歳の時に、学徒動員で通っていた三菱長崎兵器製作所大橋工場裏(長崎原爆の爆心地から1.4kmの地点)で、防空壕を掘る作業中に原子爆弾に被爆した。

周囲で多くの学生が死亡し、自身も顔と全身に大火傷を負った。大村海軍病院に搬送され40日間にわたる高熱等に苦しめられたが、奇跡的に回復して翌1946年3月9日に退院した。しかし、その後、顔から胸に残ったケロイド跡に悩まされた。

1951年に同校機械科を卒業。多くの企業で体格検査に不合格となり、五島の父親のもとで駄菓子屋と農業をして生活した。1953年には土地を売って長崎市に戻り、1957年まで饅頭屋を営んでいた。

1955年10月1日、被爆者の苦しみと実態を訴えるために「長崎原爆青年の会」を作り、経営していた建築事務所を閉鎖し、残りの生涯を反核と被爆者運動に捧げようと決意。

◆ 運動家として

1952年、ケロイド跡治療(植皮手術)のための入院先で患者会を結成した。その後平和運動に没頭した。1954年には、単身上京して被爆者救済を陳情するものの、成果はなかった。

1955年10月1日に長崎原爆青年乙女の会を結成して初代会長に就任。また長崎原爆被災者協議会会長、日本被爆者団体協議会代表理事、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員などを歴任した。

1982年にニューヨークで開かれた第2回国際連合軍縮特別総会の全体委員会で、NGOを代表して演説した。

山口の活動は1986年5月22日にNHK「被爆者 アメリカを行く」で、またその半生は1999年5月29日に長崎放送「ゆるすまじ~山口仙二 その生の記憶」で紹介された。

2005年にはアメリカの歴史学者アーウィン・エーブラムズによってノーベル平和賞候補に選出された。

2007年4月に発足したノーモア・ヒバクシャ九条の会の呼びかけ人にも名を連ねている。

2010年、様々な分野で長崎県の発展に貢献した人を顕彰する長崎新聞文化賞を受賞。

◆ 晩年

1990年代前半より喘息を患うなど体調が悪化。1年のうち2、3ヶ月を病院で過ごす。

ケロイドや肝機能障害に加え、上記の慢性喘息の悪化により2003年に長崎市から雲仙市のケアハウスに転居し、妻とともに暮らす。酸素吸入管を手放せない日々を送るが、取材には応じるなど非核平和への思いはなお衰えていなかった。

2013年7月6日、死去。82歳没。

特記事項

久間章生の問題発言の際には「長崎、広島に落とされた原爆で悲惨な目に遭った人が、どれほどいるのか考えて欲しい」と激しい抗議を行わなかった。

昭和天皇の戦争責任を主張しているが、長崎国際文化会館時代1995年に来県した今上天皇・皇后に展示資料を自ら説明した。

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