追悼の森 =川上哲治さん死去=

I was thunderstruck at the news of his death

Top Page    有名人訃報一覧【か~き~く~け~こ】 著名人訃報一覧【か~き~く~け~こ】  著名人訃報一覧 2013年 著名人訃報一覧 Ver.70
nagomi画像
Smart Phone
スマートフォンサイト訃報

元プロ野球選手、監督  川上哲治 さん死去

2013年(平成25年)10月28日 死去 享年93歳

川上哲治写真  

元プロ野球選手、監督  川上哲治 さん死去

プロ野球往年の強打者として「打撃の神様」と称され、監督に転じてからは読売巨人軍を9年連続日本一の偉業達成に導いた 川上 哲治(かわかみ てつはる)さんが 2013年(平成25年)10月28日午後4時58分、老衰のため東京都稲城市内の病院で死去した。93歳だった。

現役時代から「打撃の神様」と言われ、戦時中から戦後におけるプロ野球界の大スターとして活躍した。監督としては王貞治・長嶋茂雄らを率いて読売ジャイアンツの黄金時代を築き上げ、プロ野球史上唯一の9年連続日本一を達成するなど多大なる功績を残し、「プロ野球界の生き神様」とまで呼ばれる伝説的な存在となった。

人物 / 略歴

川上 哲治(かわかみ てつはる、1920年3月23日 ~ 2013年10月28日)

熊本県球磨郡大村(現:人吉市)出身。プロ野球選手、監督。野球解説者。

名前の読みは、現役時代は「てつじ」だったが、指導者時代に「てつはる」に変えた。

愛称は「打撃の神様」、「哲」、「ドン川上」、長年世田谷区野沢在住であるため「野沢のおやじさん」。

現役では最高齢のプロ野球解説者(NHK)だった。

妻は元宝塚歌劇団娘役の代々木ゆかり(在団1936年 ~ 1944年)。長男はノンフィクション作家の川上貴光。

◆ 略 歴

熊本県人吉市の大村尋常高等小学校(現:人吉市立人吉西小学校)を卒業後、熊本県立工業学校(現:熊本工業高等学校)に入学。

その後、中学済々黌(現:熊本県立済々黌高等学校)に編入、さらに人吉中学校(現:熊本県立人吉高等学校)を経て、熊本工業高校に復学。

投手として吉原正喜とのバッテリーが評判となり、夏の全国中等学校野球選手権大会へ2度(1934年・1937年)出場、いずれも準優勝する。

1936年、春の選抜中等学校野球大会に出場。決勝戦終了後に甲子園球場の土をユニフォームのポケットに入れ、母校のグラウンドに撒いた。甲子園の土の持ち帰り第1号とされている。この時は中京商業学校に負けたものの、優秀投手に選ばれている。

◆ 現役時代

卒業後、1938年に東京巨人軍に投手として入団。

契約金は300円・月給110円だった。当時の300円という金額は「東京では分からないが、熊本の田舎ならなんとか家一軒建てられる」ものだったという。

同期入団には熊本工業学校の同級生・吉原正喜をはじめ、千葉茂、内海五十雄、野村高義、岩本章、三田政夫がおり、「花の昭和13年組」として注目を集めた。

巨人の狙いは強打の捕手の吉原であり、投手の川上はそのついでという扱いだった。川上は巨人と契約した1週間後に南海の契約金500円・月給150円という好条件を聞き、巨人と契約したことを悔やんだという。

また異説として、南海への入団が決まりかけていたが、巨人は南海の加入に既存球団の反対が強かった状況を利用した。巨人の鈴木惣太郎は南海の高須一雄監督を呼び出し、南海の加入に反対しない代わりに川上と吉原の獲得から手を引かせる取引をしたという。

入団当時は投手として登録されていたが、球威に乏しく自他共に認める「軟投派」タイプであった。監督の藤本定義は川上の打撃に注目して打者として育てようと考えていたが、チームは投手が不足していたので投手も兼任させた。

当時の正一塁手だった永沢富士雄が怪我でスタメン落ち、急遽一塁手として出場。この年の秋シーズンから一塁手として定着する。翌1939年から内野手として登録されるが、1941年までは投手も兼業していた。

1939年から1シーズン制に戻り、同年に19歳にして首位打者を獲得。以後1941年にも首位打者に輝いた。「投手で4番」の先発出場を3回記録しており、4月10日の南海戦では投手として出場しながら5安打を放った。

1944年に入営。立川陸軍航空整備学校の教官(陸軍少尉)をしていた時には部下に丹波哲郎がいた。またこの当時、内地で終戦を迎える。

プロ野球は1946年4月からペナントレースが再開され、巨人は川上に対して選手復帰を申し立てた。しかし、「もし3万円貰えるなら巨人に復帰する用意がある」と伝えた。これは、プロ野球で初めて選手が球団に対して契約金を要求したことになり「三万円ホールドアウト事件」とも言われる。1946年6月から巨人に復帰した。

1946年8月26日の中日戦で、銀座の運動具メーカー南風運動具店からプレゼントされた赤いバットを使ってプレーした。この「赤バット」は川上のトレードマークとなり、青バットを使用した大下弘と共に鮮烈な印象を与えた。この運動具メーカーとの契約は、プロ野球選手のCM出演第1号ともいわれる。

1950年、シーズン2度の1試合3本塁打を記録(3月14日、4月16日)。これは1989年にラルフ・ブライアントがシーズン4度記録するまで最多記録だった。

1951年には打率.377を記録。これは1986年にランディ・バース(阪神)が.3885を記録するまでセ・リーグ記録であり続け、1989年にウォーレン・クロマティを.378記録するまで球団記録だった。また規定打席到達者による年間三振6(424打席)の最少三振タイ記録も達成した。

1953年4月26日プロ野球史上初の1500安打を達成した。この到着試合数(1241試合)松井稼頭央の1233試合、アレックス・ラミレスの1236試合、レロン・リーの1237試合に次ぐ速さである。

1956年5月31日の中日戦、中山俊丈投手からプロ野球史上初の2000本安打を達成した。この到達試合数は日本プロ野球最速記録である(1646試合)。

1958年、日本シリーズ第7戦終了後に現役引退を表明し、コーチに就任。

◆ 監督時代

1961年、水原監督の辞任に際し、第8代監督に昇格。

コーチ兼任となった別所毅彦が鬼軍曹的な役割を担い、選手たちに猛練習を課した。また、コーチとして招聘した牧野茂が中心となってサインプレーや守備のカバーリングなどを日本のプロ野球界で初めて導入していった。

こうした野球が功を奏して1961年にはチーム打率リーグ最低に加えて当時では珍しい20勝投手なしという戦力でありながらリーグ優勝、さらに日本シリーズでは南海ホークスを倒して日本一に輝いた。

V9時代のユニフォームは1961年、川上の監督就任とともに登場し、川上が退任する1974年までの14年間の長きにわたり使用された。

戦力が整った1965年以降、巨人は1973年まで9年連続リーグ優勝と日本一のいわゆる「V9」を達成した。

この間、堀内恒夫、土井正三、高田繁、高橋一三ら若手が主力選手として支え、さらにトレードで関根潤三、森永勝也、富田勝ら他球団の有力選手を獲得してレギュラー選手たちを刺激し続けた。特に捕手の森昌彦に対してはアマチュア球界の有力選手を次々に獲得していき安住を許さなかった。

巨人が連覇を続け、さらに王・長嶋が活躍してタイトルを独占するという状況が続くと、ファンやマスコミがこれに飽きてきて、予定調和的に巨人が勝ち続けることへの不満が高まっていった。川上はこうした批判を次第に気にし始めており、V6を達成した1970年には監督からの退任も決意している。

ファンやマスコミからは長嶋茂雄が次期監督となることへ期待が高まっていった。

1974年長嶋は引退を決断、そしてチームもリーグ10連覇を逃し、川上は監督退任した。

◆ 晩年 / 退団後

監督退任後は球団専務に就任したが、川上を煙たがり、現場から遠ざけることを望んでいた当時オーナーの正力亨の意向で少年野球担当に回され、わずか1年で退団。

1976年からNHKの野球解説者、日刊スポーツの野球評論家となった。

その後、NHKの解説の第一線からは退いたがJ SPORTS STADIUMに特別ゲスト解説で出演することがあった。

1992年、球界初の文化功労者に選ばれた。

後年は鶴岡一人と共に球界に強い影響力を持ったことから「ドン川上」といわれるようになった。

2013年(平成25年)10月28日午後4時58分、老衰のため東京都稲城市内の病院で死去した。享年93歳。

特記事項

1965年に野球殿堂入り。

1999年3月17日、生誕地の熊本県人吉市に川上哲治記念球場完成。

元々は右利きであったが、5歳の時に砂利道で転んで右腕を負傷。完治に半年ほどかかり、治る頃には左利きになっていた。

◆ 川上哲治 / タイトル

◇ 首位打者:5回(1939年、1941年、1951年、1953年、1955年)
◇ 本塁打王:2回(1940年、1948年)
◇ 打点王:3回(1939年、1941年、1955年)
◇ 最多安打:6回(1939年、1941年、1947年、1953年、1955年、1956年)※歴代2位。当時連盟表彰なし。

◆ 川上哲治 / 表彰

◇ MVP:3回(1941年、1951年、1955年)
◇ ベストナイン:10回(1940年、1947年 - 1949年、1951年、1953年、1955年 - 1958年)
◇ 日本シリーズMVP:1回(1953年)
◇ 日本シリーズ首位打者賞:1回(1953年)
◇ 日本シリーズ技能賞:1回(1958年)
◇ 日本シリーズホームラン賞:1回(1952年)
◇ オールスターゲームMVP:1回(1951年 第1戦)
◇ 野球殿堂入り(競技者表彰:1965年)
◇ 勲四等旭日小綬章(1992年)
◇ 文化功労者(1992年)

◆ 川上哲治 / 記録

◇ シーズン打率:.377(1951年)※歴代8位。
◇ シーズン打率3割以上:12回(1939年 - 1941年、1947年、1949年 - 1956年)※歴代3位タイ。
◇ シーズン三振数:6(1951年)※最少三振日本タイ記録。
◇ 打率ベストテン入り:15回(1938年秋 - 1941年、1947年 - 1957年)※歴代3位。
◇ 8年連続シーズン打率3割以上(1949年 - 1956年)※歴代2位タイ。
◇ 9打数連続安打(1939年4月9日 - 9月11日)
◇ 10試合連続打点(1949年4月3日 - 4月14日)
◇ 1試合3三塁打(1939年6月21日)※日本タイ記録。
◇ 1イニング2本塁打(1948年5月16日):対金星スターズ戦、1回に2ランと3ラン。日本プロ野球史上初。
◇ 逆転サヨナラ満塁本塁打(1949年4月12日):対南海ホークス戦、スコアは6対5(お釣り無し)※日本プロ野球史上初
◇ 日本シリーズ通算打率:.365(159打数58安打)※80打数以上では、歴代1位。
◇ サイクルヒット:1回(1954年7月25日、対広島カープ戦、前橋市民球場)※史上11人目。
◇ 通算2000本安打達成(1956年5月31日)※史上初。1646試合目での達成は史上最速。
◇ 通算猛打賞:194回 ※歴代2位。
◇ オールスターゲーム出場:7回(1951年 - 1954年、1956年 - 1958年)

◆ 川上哲治 / 出演CM

◇ セキスイハイム(1980年)

◆ A Related Words :
川上哲治 現在/川上哲治 死去/川上哲治 背番号/川上哲治ヤフオク/川上哲治 なんj/川上哲治 血液型/川上哲治 パワプロ/川上哲治 長嶋茂雄/川上哲治記念球場/前田智徳 川上哲治/川上哲治 プロフィール/川上哲治 略歴

Page Top

スマートフォン / PC サイト