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元陸軍少尉 小野田 寛郎 さん死去

2014年(平成26年)1月16日 死去 享年91歳

小野田寛郎写真 

元陸軍少尉 小野田寛郎 さん死去

フィリピン・ルバング島のジャングルで、太平洋戦争終了後も29年間、潜伏し、生還した元陸軍少尉の 小野田 寛郎(おのだ ひろお)さんが 2014年(平成26年)1月16日午後4時29分、心不全のため東京都内の病院で死去した。91歳だった。

1974年(昭和49年)3月12日、終戦から29年目にしてフィリピンルバング島から帰還を果たした。1972年に帰国した横井庄一さんに次ぐ、旧日本兵の帰還となった。帰国の半年後、帰国後に結婚した妻の町枝さんと共に次兄のいるブラジルに移住し牧場を経営。また、青少年の育成を目指す「自然塾」を全国各地で開き、1989年には私財を投じて財団法人を設立。この功績で2005年(平成17年)に藍綬褒章を受章した。近年は、膵臓がんなどを患い、今年1月から入院していたという。

◆ 小野田寛郎の言葉 - - -

 わたしは、戦場での三十年 生きる意味を真剣に考えた。戦前、人々は命を惜しむなと教えられ、死を覚悟して生きた。
戦後、日本人は何かを命がけでやることを否定してしまった。覚悟をしないで生きられる時代はいい時代である。
だが、死を意識しないことで、日本人は生きることを おろそかにしてしまってはいないだろうか。

人物 / 略歴

小野田 寛郎(おのだ ひろお、1922年(大正11年)3月19日 ~ 2014年(平成26年)1月16日)

和歌山県海草郡亀川村(現:和歌山県海南市)に生まれる。日本の陸軍軍人、実業家。

最終階級は予備陸軍少尉。旧制海南中学校・久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒。

情報将校として太平洋戦争(大東亜戦争)に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、戦争終結から29年目にしてフィリピンルバング島から帰還を果たす。

◆ 略 歴

父・種次郎(県議会議員)、母・タマエ(教師)の間に小野田家の四男として生まれる。

旧制海南中学校・久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒。

中学校卒業後は民間の貿易会社(田島洋行)に就職し、中華民国の漢口支店勤務となり中国語を習得。

◆ 軍歴

上海の商事会社で働いていた1942年12月、満20歳の為徴兵検査(徴募)を受け本籍のある和歌山歩兵第61連隊に現役兵として入営。

従軍中に甲種幹部候補生(予備役将校を養成)を志願しこれに合格、1944年1月に久留米第一陸軍予備士官学校へ入校する。

卒業後、同年9月に陸軍中野学校二俣分校入校、主に遊撃戦の教育を受け、退校命令を受領(中野学校は軍歴を残さないため卒業ではなく退校を使用)。11月に事実上の卒業後、見習士官(予備陸軍曹長)を経て予備陸軍少尉に任官。

同年12月、第14方面軍情報部付となり、フィリピンに派遣。

派遣前、母親からは「敵の捕虜となる恐れがあるときには、この短刀で立派な最後を遂げてください」と言われ短刀を渡された(この短刀は帰国後に実家に帰った際に母親に返している。)。

同月31日、ルバング島に着任。1945年2月28日のアメリカ軍約1個大隊上陸後、日本軍各隊はアメリカ軍艦艇の艦砲射撃などの大火力に簡単に撃破され山間部に逃げ込んだ。

友軍来援時の情報提供を行うため、部下と共に遊撃戦を展開した。ルバング島は、フィリピンの首都マニラの位置するマニラ湾の出入口にあり、この付近からマニラを母港とする連合国軍艦船、航空機の状況が一目で分かるため、戦略的に極めて重要な島であった。

◆ 日本敗戦後

1945年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかった為、赤津勇一陸軍一等兵(1950年6月投降)、島田庄一陸軍伍長(1954年5月7日射殺され戦死)、小塚金七陸軍上等兵(1972年10月19日同じく射殺され戦死)と共に戦闘を継続し、密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。

日本では1945年9月に戦死公報を出されたが、1950年に赤津が投降したことで、小野田ら3人の残留日本兵が存在することが判明する。

フィリピンは戦後間もなくアメリカの植民地支配からの独立を果たしたものの、両国の協定によりアメリカ軍はフィリピン国内にとどまることとなった。

島内にあったアメリカ軍レーダーサイトへの襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開した。

使用した武器は九九式短小銃、三八式歩兵銃、軍刀等であり、その他放火戦術も用いた。この際、弾薬の不足分は、島内に遺棄された戦闘機用の7.7x58SR機関銃弾(薬莢がセミリムド型で交換の必要あり)を九九式実包の薬莢に移し替えて使用していた。

これらの戦闘において、アメリカ軍レーダー基地司令官を狙撃し、重傷を負わせる等、多くの戦果を上げている。

地元警察との戦闘では2人の部下を失い、最後の数年は密林の中、単独で戦闘を続行している。

30年間継続した戦闘行為によって、フィリピン警察軍、在比アメリカ軍の兵士を30人以上殺傷した。

手に入れたトランジスタラジオを改造して短波受信機を作り、独自で世界情勢を判断しつつ、友軍来援に備えた。また、主な食料として、島内の野生牛を捕獲して乾燥肉にしたり、自生するヤシの実を拾っていた。これにより、良質の動物性タンパク質とビタミン、ミネラルを効率良く摂取していた。

また、捜索隊が残した日本の新聞や雑誌で、当時の日本の情勢についても、かなりの情報を得ていた。

捜索隊はおそらく現在の情勢を知らずに小野田が戦闘を継続していると考え、あえて新聞や雑誌を残していったのだが、皇太子成婚の様子を伝える新聞のカラー写真や、1964年東京オリンピックや東海道新幹線等の記事によって、小野田は日本が繁栄している事は知っていた。

士官教育を受けた小野田はその日本はアメリカの傀儡政権であり、満州に亡命政権があると考えていた。

また、小野田は投降を呼びかけられていても、二俣分校での教育を思い出し、終戦を欺瞞であり、敵対放送に過ぎないと思っていた。

末期にはラジオで日本の競馬中継を聞き、小塚と賭けをするのが唯一の娯楽であった。

だがそんな小野田も、長年の戦闘と小塚死亡後の孤独に対して疲労を深めていった。

1974年に、一連の捜索活動に触発された日本の青年 鈴木紀夫が現地を訪れ、2月20日に孤独に苛まれていた小野田との接触に成功する。

鈴木は日本が敗北した歴史や現代の状況を説明して帰国を促し、小野田も直属の上官の命令解除があれば、任務を離れる事を了承する。

3月9日にかつての上官である谷口義美元陸軍少佐から、文語文による山下奉文陸軍大将(14HA司令官)名の「尚武集団作戦命令」と口達による「参謀部別班命令(下記)」で任務解除・帰国命令が下る。

一 大命ニ依リ尚武集団ハスヘテノ作戦行動ヲ解除サル。
二 参謀部別班ハ尚武作命甲第2003号ニ依リ全任ヲ解除サル。
三 参謀部別班所属ノ各部隊及ヒ関係者ハ直ニ戦闘及ヒ工作ヲ停止シ夫々最寄ノ上級指揮官ノ指揮下ニ入ルヘシ。已ムヲ得サル場合ハ直接米軍又ハ比軍ト連絡ヲトリ其指示ニ従フヘシ。

第十四方面軍参謀部別班班長 谷口義美

翌3月10日にかけ、フィリピン軍基地に着くとフィリピン軍司令官に軍刀を渡し、降伏意思を示した。

フィリピン軍司令官は一旦受け取った軍刀をそのまま小野田に返した。司令官は小野田を「軍隊における忠誠の見本」と評した。

小野田の投降式にはマルコス大統領も出席し、武装解除された。その際、マルコス大統領は小野田を「立派な軍人」と評している。

小野田は終戦後に住民の物資を奪い、殺傷して生活していたとすれば、フィリピン刑法の処罰対象になる。小野田は終戦を信じられずに戦闘行為を継続していたと主張し、日本の外務省の力添えもあって、フィリピン政府は刑罰対象者の小野田を恩赦した。

こうして小野田にとっての戦争が終わり、1974年(昭和49年)3月12日に帰国を果たした。

◆ 帰国後

帰国の際に「天皇陛下万歳」を叫んだ事や現地軍との銃撃戦によって多数の軍人や住民が死傷した出来事が明らかになった事(フィリピン政府当局の判断により、小野田への訴追は行われなかった)、また本当に敗戦を知らなかったのかという疑問が高まるに連れて、マスコミや文化人からは「軍人精神の権化」、「軍国主義の亡霊」といった批判もあった。

小野田に対し、政府は見舞金として100万円を贈呈するが、小野田は拒否する。拒否するも見舞金を渡されたので、小野田は見舞金と方々から寄せられた義援金の全てを、靖国神社に寄付している。

天皇との会見も断り(自身が勝手に潜伏していたので、陛下は声の掛け様が無いだろうと判断)、小野田は戦闘で亡くなった島田と小塚の墓を参っている。

◆ ブラジル移住

帰国後、父親との不仲や一部マスコミの虚偽報道もあり、大きく変貌した日本社会に馴染めなかった。

帰国の半年後に次兄のいるブラジルに移住して小野田牧場を経営する事を決意。帰国後結婚した妻の町枝と共に移住し、10年を経て牧場経営を成功させた。

その後、『祖国のため健全な日本人を育成したい』と、サバイバル塾『小野田自然塾』を主宰。自らの密林での経験を元に逞しい日本人を育成するとして、講演会や野営等を行い、高齢ながらも日本とブラジルを往復し続けている。

妻・町枝は2006年、安西愛子の後任として日本会議の女性組織・日本女性の会の会長に就任した。

保守系の活動家でもあり、日本を守る国民会議、日本会議代表委員等を歴任。社団法人日本緑十字社理事にも就任した。

また、政府見解と異なる懸賞論文を投稿したとして更迭された、田母神俊雄元航空幕僚長を支持する「田母神論文と自衛官の名誉を考える会」には、発起人として妻と共に名を連ねている。

2009年5月15日には、「小野田寛郎の日本への遺言」と題した講演を2時間に渡って行った。

特記事項

長兄・敏郎は東京帝国大学医学部・陸軍軍医学校卒の軍医将校(終戦時最終階級陸軍軍医中佐)。次兄・格郎は陸軍経理学校卒の経理将校(陸軍主計大尉)。弟・滋郎はのちに陸軍士官学校に入校し兵科将校(陸軍少尉)となる等、これら兄弟は何れも現役の陸軍将校であった。

中華人民共和国のウェブサイト『鳳凰網』歴史総合ページで紹介されると、「真の軍人だ」、「この兵士の精神を全世界が学ぶべきだ」、「大和民族は恐るべき民族。同時に尊敬すべき民族」などの賞賛する書き込みがあり、肯定的に評価する投稿の方が若干多かった。反日的な意見が多い当該サイトの書き込み欄では異例の反応であった。

◆ 小野田寛郎 / 栄典・称号

◇ サントス・ドゥモン勲章(2004年12月17日、日本人として初めて受章)
◇ 藍綬褒章(2005年11月3日)
◇ 剣道錬士五段

◆ 小野田寛郎 / 著書

◇ 『わがルバン島の30年戦争』(講談社, 1974年)
◇ 『戦った、生きた、ルバン島30年 少年少女におくるわたしの手記』講談社 1974年
◇ 『わがブラジル人生』講談社 1982年
◇ 『子どもは野性だ ルバング島30年』 (学習研究社, 1984年)(『鈴木健二のお父さん子どもに野性を贈ろう』と同じISBN)
◇ 『子どもは風の子、自然の子-『ジャングルおじさん』の自然流子育て』講談社 1987年
◇ 『わが回想のルバング島 情報将校の遅すぎた帰還』(朝日新聞社, 1988年)のち文庫
◇ 『たった一人の30年戦争』 (東京新聞出版局, 1995年)
◇ 『極限で私を支えたもの』山田村教育委員会 1997年
◇ 『君たち、どうする?』 (新潮社 2004年)

◆ 小野田寛郎 / 共著

◇ 『遥かに祖国を語る 小野田寛郎・酒巻和男対談』時事通信社, 1977年)
◇ 『だから日本人よ、靖国へ行こう』中條高徳共著 ワック 2006年 「「靖国」のことを語ろう」文庫
◇ 『魚は水人は人の中-今だからこそ伝えたい師小野田寛郎のことば』 (原充男筆記 清流出版 2007年)
◇ 『ルバング島戦後30年の戦いと靖国神社への思い (まほろばシリーズ 2)』 (明成社, 2007年)

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