追悼の森 =原 節子さん死去=

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元女優 原 節子 さん死去

2015年(平成27年)9月5日 死去 享年95歳

原節子写真 

元女優 原 節子 さん死去

戦前から戦後にかけて、清純派の美人スターとして活躍した伝説の女優 原 節子(はら せつこ)さんが2015年(平成27年)9月5日、肺炎のため神奈川県内の病院で死去していたことが11月25日分かった。95歳だった。本名は会田昌江(あいだ まさえ)

1935年(昭和10年)に映画デビュー。1937年、日独合作映画「新しき土」のヒロインに抜てきされ、大きな話題を呼んだ。戦後には、黒沢明監督「わが青春に悔なし」、今井正監督「青い山脈」など名匠の作品に出演、彫りの深い美貌と、はつらつとした明るさで人気女優の地位を確立した。特に小津安二郎監督「晩春」「東京物語」などの名作で、知的で優しい成熟した女性像を演じ、名実ともにトップ女優になった。1963年(昭和38年)に死去した小津安二郎監督の通夜に出席したのを最後に女優業を事実上引退し、以降表舞台には一切姿を見せなくなった。晩年は鎌倉市で親戚と暮らしているとされた。

人物 / 略歴

原 節子(はら せつこ、1920年(大正9年)6月17日 ~ 2015年(平成27年)9月5日)

横浜市出身。本名は会田 昌江(あいだ まさえ)。元女優。

「永遠の処女」と呼ばれ、戦前から戦後にかけて活動し、日本映画の黄金時代を体現した。

代表作に『わが青春に悔なし』、『青い山脈』、『めし』、『東京物語』などがある。

2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の第1位に輝いた。

◆ 略 歴

神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町帷子(現在:横浜市保土ケ谷区月見台)で父:藤之助、母:ナミの間に生まれる。

兄弟は男3人、女5人であった。

保土ヶ谷尋常高等小学校から、私立横浜高等女学校(現:横浜学園高等学校)に入学。

家庭が経済的に困窮していたこともあり、次女光代と結婚していた映画監督の熊谷久虎の勧めに従って映画界に入ることにし、女学校を二年で中退した。

1935年4月15日、日活多摩川撮影所に入社し、同年の日活映画『ためらふ勿れ若人よ』(田口哲監督)で映画デビュー。

同作で演じた役名「節子」から芸名をとって「原節子」とする。

1936年、撮影中に見学にきたドイツのアーノルド・ファンク監督の目にとまり、初の日独合作映画『新しき土』のヒロイン役に抜擢される。

ファンクは当初、田中絹代も一緒にキャスティングしようとしたが田中が松竹の専属であったためにかなわず、原のみのキャスティングとなった。

伊丹万作監督も請われて協力したこの作品は、結果としてファンクが編集した版と、ファンクと対立した伊丹が編集した版の両方がつくられてどちらも公開された。

1937年、原は11月30日に発足した東宝映画株式会社に移籍する。

太平洋戦争中は、1942年の『ハワイ・マレー沖海戦』をはじめ、『決戦の大空へ』、『勝利の日まで』、『望楼の決死隊』などの戦意高揚映画に数多く出演している。

戦争後の翌年、1946年9月、原は資生堂のイメージガールに起用され、戦後初の多色刷りポスターが街中を賑わせた。

さらに黒澤明監督の戦後初の作品『わが青春に悔なし』のヒロインに抜擢される。

当時の東宝はいわゆる東宝争議のさなかにあり、そのあおりを受けた原は新東宝映画製作所に移るが、1947年6月フリーの女優として独立する。

フリー第一作は初の松竹出演作品となった『安城家の舞踏会』(1947年)であった。

同作のヒットで原は戦後のトップ女優としての地位を確立した。

つづく1949年の『青い山脈』では女性教師役を演じ、服部良一作曲の同名主題歌とともに映画も大ヒットした。

同年、初めて小津安二郎監督と組んだ作品『晩春』に出演。

以後、1961年の『小早川家の秋』まで小津監督の6作品に出演を果たすことになる。

小津は女優としての原節子を絶対的に高く評価し、自らの作品に起用し続けた。

1949年(昭和24年)には『晩春』、『青い山脈』、『お嬢さん乾杯』の演技が評価され、毎日映画コンクールの女優演技賞を受賞した。

ルックス先行の人気、とささやかれてきた原にとって演技面での評価をうけることは長きにわたる宿願であった。

1952年の『東京の恋人』以降、しばらく出演作が途絶えたことで、マスコミから「伝説の存在」と表現されるようになる。

1954年、原は体調を崩して通院を繰り返すことになり、引退をささやかれるようになる。

1955年に公開された『ノンちゃん雲に乗る』では初めて母親役を演じる。

体調が回復した1956年の作品『婚約三羽烏』が原にとって初のカラー作品であった。

1961年、日本映画の年間製作数は548本に達するが、これをピークに映画産業は斜陽化していく。

1962年、稲垣浩監督による東宝創立三十周年記念作品『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』が封切られ、原は大石内蔵助の妻りくを演じた。

これが原にとって最後の出演作品となった。

1963年12月12日、小津が東京医科歯科大学附属病院で没し、その通夜に出席したのを最後に原は女優業を事実上引退し、以降表舞台には一切姿を見せなくなった。

高橋治は原が「小津の死に殉じるかのように」公的な場から身を引いたと表現している。

晩年は鎌倉市で親戚と暮らしているとされた。

2015年9月5日、肺炎のため神奈川県内の病院で死去。95歳没。

特記事項

1963年に女優業を引退した。

訃報は、没後、約2か月半が経過した11月25日にマスメディアで伝えられた。

◆ 原 節子 / 出演映画

◇ 『ためらふ勿れ若人よ』(田口哲 監督、1935年)
◇ 『深夜の太陽』(倉田文人 監督、1935年)
◇ 『魂を投げろ』(田口哲 監督、1935年)
◇ 『緑の地平線』前篇(阿部豊 監督、1935年)
◇ 『緑の地平線』後篇(阿部豊 監督、1935年)
◇ 『白衣の佳人』(阿部豊 監督、1936年)
◇ 『河内山宗俊』(山中貞雄 監督、1936年)
◇ 『嫁入り前の娘達』(吉村廉 監督、1936年)
◇ 『生命の冠』(内田吐夢 監督、1936年)
◇ 『丹下左膳 日光の巻』(渡辺邦男 監督、1936年)
◇ 『検事とその妹』(渡辺邦男 監督、1937年)
◇ 『新しき土』(アーノルド・ファンク 監督、1937年)
◇ 『東海美女伝』(石田民三 監督、1937年)
◇ 『母の曲』前編(山本薩夫 監督、1937年)
◇ 『母の曲』後編(山本薩夫 監督、1937年)
◇ 『巨人伝』(伊丹万作 監督、1938年)
◇ 『レ・ミゼラブル』の翻案
◇ 『田園交響楽』(山本薩夫 監督、1938年)
◇ 『将軍の孫』(渡辺邦男 監督、1938年)
◇ 『冬の宿』(豊田四郎 監督、1938年)
◇ 『美はしき出発』(山本薩夫 監督、1939年)
◇ 『忠臣蔵』前後編(滝沢英輔、山本嘉次郎 監督、1939年)
◇ 『上海陸戦隊』(熊谷久虎 監督、1939年)
◇ 『街』(山本薩夫 監督、1939年)
◇ 『女の教室』前編(阿部豊 監督、1939年)
◇ 『女の教室』前編 中後編(阿部豊 監督、1939年)
◇ 『東京の女性』(伏水修 監督、1939年)
◇ 『光と影』前後編(島津保次郎 監督、1940年)
◇ 『東遊記』(大谷俊夫 監督、1940年)
◇ 『嫁ぐ日まで』(島津保次郎 監督、1940年)
◇ 『蛇姫様』第一編(衣笠貞之助 監督、1940年)
◇ 『女の街』(今井正 監督、1940年)
◇ 『二人の世界』(島津保次郎 監督、1940年)
◇ 『姉妹の約束』(山本薩夫 監督、1940年)
◇ 『兄の花嫁』(島津保次郎 監督、1941年)
◇ 『大いなる感情』(藤田潤一 監督、1941年)
◇ 『結婚の生態』(今井正 監督、1941年)
◇ 『指導物語』(熊谷久虎 監督、1941年)
◇ 『希望の青空』(山本嘉次郎 監督、1942年)
◇ 『青春の気流』(伏水修 監督、1942年)
◇ 『若い先生』(佐藤武 監督、1942年)
◇ 『緑の大地』(島津保次郎 監督、1942年)
◇ 『母の地図』(島津保次郎 監督、1942年)
◇ 『ハワイ・マレー沖海戦』(山本嘉次郎 監督、1942年)
◇ 『阿片戦争』(マキノ正博 監督、1943年)
◇ 『望楼の決死隊』(今井正 監督、1943年)
◇ 『若き日の歓び』(佐藤武 監督、1943年)
◇ 『決戦の大空へ』(渡辺邦男 監督、1943年)
◇ 『熱風』(山本薩夫 監督、1943年)
◇ 『怒りの海』(今井正 監督、1944年)
◇ 『勝利の日まで』(成瀬巳喜男 監督、1945年)
◇ 『北の三人』(佐伯清 監督、1945年)
◇ 『緑の故郷』(渡辺邦男 監督、1946年)
◇ 『麗人』(渡辺邦男 監督、1946年)
◇ 『わが青春に悔なし』(黒澤明 監督、1946年)
◇ 『かけ出し時代』(佐伯清 監督、1947年)
◇ 『安城家の舞踏会』(吉村公三郎 監督、1947年)
◇ 『女だけの夜』(倉田文人 監督、1947年)
◇ 『三本指の男』(松田定次 監督、1947年)
◇ 『本陣殺人事件』の映画化
◇ 『誘惑』(吉村公三郎 監督、1948年)
◇ 『時の貞操』前編(吉村廉 監督、1948年)
◇ 『時の貞操』後編(吉村廉 監督、1948年)
◇ 『颱風圏の女』(大庭秀雄 監督、1948年)
◇ 『幸福の限界』(木村恵吾 監督、1948年)
◇ 『殿様ホテル』(倉田文人 監督、1949年)
◇ 『お嬢さん乾杯』(木下惠介 監督、1949年)
◇ 『青い山脈』(今井正 監督、1949年)
◇ 『続青い山脈』(今井正 監督、1949年)
◇ 『晩春』(小津安二郎 監督、1949年)
◇ 『白雪先生と子供たち』(吉原廉 監督、1950年)
◇ 『女医の診察室』(吉村廉 監督、1950年)
◇ 『野生』(沢村勉 監督、1950年)
◇ 『七色の花』(春原政久 監督、1950年)
◇ 『白痴』(黒澤明 監督、1951年)
◇ 『麦秋』(小津安二郎 監督、1951年)
◇ 『めし』(成瀬巳喜男 監督、1951年)
◇ 『風ふたたび』(豊田四郎 監督、1952年)
◇ 『東京の恋人』(千葉泰樹 監督、1952年)
◇ 『恋の風雲児』(山本嘉次郎 監督、1953年)
◇ 『白魚』(熊谷虎久 監督、1953年)
◇ 『東京物語』(小津安二郎 監督、1953年)
◇ 『山の音』(成瀬巳喜男 監督、1954年)
◇ 『ノンちゃん雲に乗る』(倉田文人 監督、1955年)
◇ 『美しき母』(熊谷虎久 監督、1955年)
◇ 『驟雨』(成瀬巳喜男 監督、1956年)
◇ 『愛情の決算』(佐分利信 監督、1956年)
◇ 『婚約三羽烏』(杉江敏男 監督、1956年)
◇ 『女因と共に』(久松静児 監督、1956年)
◇ 『兄とその妹』(松林宗恵 監督、1956年)
◇ 『大番』(千葉泰樹 監督、1957年)
◇ 『東京暮色』(小津安二郎 監督、1957年)
◇ 『智恵子抄』(熊谷久虎 監督、1957年)
◇ 『続大番 風雲編』(千葉泰樹 監督、1957年)
◇ 『最後の脱走』(谷口千吉 監督、1957年)
◇ 『続々大番 怒涛編』(千葉泰樹 監督、1957年)
◇ 『女であること』(川島雄三 監督、1958年)
◇ 『東京の休日』(山本嘉次郎 監督、1958年)
◇ 『大番 完結編』(千葉泰樹 監督、1958年)
◇ 『女ごころ』(丸山誠治 監督、1959年)
◇ 『日本誕生』(稲垣浩 監督、1959年)
◇ 『路傍の石』(久松静児 監督、1960年)
◇ 『娘・妻・母』(成瀬巳喜男 監督、1960年)
◇ 『ふんどし医者』(稲垣浩 監督、1960年)
◇ 『秋日和』(小津安二郎 監督、1960年)
◇ 『慕情の人』(丸山誠治 監督、1961年)
◇ 『小早川家の秋』(小津安二郎 監督、1961年)
◇ 『娘と私』(堀川弘通 監督、1962年)
◇ 『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』(稲垣浩 監督、1962年)

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