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歌手、女優  美空ひばり さん死去

1989年(平成元年)6月24日 死去 享年52歳

美空ひばり写真  

歌手、女優  美空ひばり さん死去

昭和の歌謡界を代表する歌手、女優として活躍した 美空 ひばり(みそら ひばり)さんが1989年(平成元年)6月24日午前零時過ぎ、間質性肺炎による呼吸不全のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去した。52歳だった。

数々のヒット曲を歌い、銀幕スターとして多数の映画に出演し 昭和の歌謡界を代表する歌手、女優として絶大な人気を誇った。没後の同年7月、長年の歌謡界に対する貢献を評価され 女性として初めてとなる国民栄誉賞が授与された。

人物 / 略歴

美空 ひばり(みそら ひばり、1937年(昭和12年)5月29日 ~ 1989年(平成元年)6月24日)

横浜市磯子区滝頭出身。本名は加藤 和枝(かとう かずえ)。 愛称は御嬢(おじょう)。 身長147cm。

女性として初の国民栄誉賞を授与された。

◆ 略 歴

横浜市立滝頭小学校、精華学園高等部卒業。

神奈川県横浜市磯子区滝頭の魚屋「魚増」を営む父・加藤増吉、母・喜美枝の長女として生まれた。

妹は佐藤勢津子、弟はかとう哲也、香山武彦。

◆ デビュー

終戦間もない1945年、母の喜美枝が自前の「青空楽団」を設立。近所の公民館、銭湯に舞台を作り、ひばり8歳のときに「美空」和枝(母の提案)の名で初舞台を踏む。

1946年、NHK「素人のど自慢」に出場し、予選で『リンゴの唄』を歌いひばり母子は合格を確信したが鐘が鳴らない。審査員は「うまいが子供らしくない」「非教育的だ」「真っ赤なドレスもよくない」という理由で悩んだ挙句、合格にできないと告げた。

1946年9月、横浜市磯子のアテネ劇場で劇場初舞台を踏む。

翌年の春、横浜で行われたのど自慢大会終了後、審査員をしていた古賀政男のもとにひばり母子は駆けつけ、「どうか娘の歌を聴いてください!」と懇願する。ひばりはアカペラで古賀の「悲しき竹笛」を歌った。

古賀はその子供とは思えない才能、度胸、理解力に感心し「きみはもうのど自慢の段階じゃない。もう立派にできあがっている」、「歌手になるなら頑張りなさい」とエールをもらった。

◆ 全国的人気を獲得

1949年3月、東横映画『喉自慢狂時代』(大映配給)でブギウギを歌う少女として映画初出演を果たした。

同年8月には松竹『踊る竜宮城』に出演し、主題歌『河童ブギウギ』でコロムビアから歌手としてB面であるが11歳で正式にレコードデビュー(7月30日)を果たした。

1949年続いて12歳で映画主演を果たした『悲しき口笛』(松竹)が大ヒット、同主題歌も45万枚が売れ(当時の最高記録)国民的認知度を得る。

この時の「シルクハットに燕尾服」で歌う映像は小さいときのひばりを代表するものとしてよく取り上げられる。

1950年、川田晴久と共に二人の主演で『東京キッド』に出演。映画とともに同名の主題歌も前作同様の大ヒットとなり、ひばりは押しも押されもせぬ絶対的な存在となった。

1951年5月新芸術プロダクション(新芸プロ)を設立。代表取締役社長が福島通人、役員にひばり、川田晴久、斎藤寅次郎がなる。

同年、嵐寛寿郎主演の松竹『鞍馬天狗・角兵衛獅子』に杉作少年役で出演。以後これを持ち役とする。

1953年、『お嬢さん社長』に主演する。

◆ 三人娘の時代

1954年、NHK紅白歌合戦に初出場。

1955年には江利チエミ、雪村いづみとともに東宝映画『ジャンケン娘』に出演したことを契機に、「三人娘」として人気を博した。

1956年、ジャズバンド「小野満とスイング・ビーバーズ」の小野満と婚約。その後、この婚約は破棄した。

1957年1月13日、浅草国際劇場にて、ショーを観に来ていた少女から塩酸を顔にかけられ浅草寺病院に緊急搬送されて入院した。

1958年4月1日、三代目山口組組長の田岡一雄が正式に神戸芸能社の看板を掲げた。同年4月、美空ひばりは神戸芸能社の専属となり、同年6月にはひばりプロダクションを設立して副社長に田岡一雄が就任した。

1960年、『哀愁波止場』で第2回日本レコード大賞歌唱賞を受賞、「歌謡界の女王」の異名をとるようになった。

◆ 小林旭との短い結婚・離婚後

1962年、日活の人気スターであった俳優・小林旭と結婚し、一時的に仕事をセーブするようになる。

結婚した翌1963年には、ひばりの実父・増吉が肺結核により50歳で亡くなっている。

別居後の1964年、わずか2年あまりで小林と離婚した。

小林の著書によれば、実際には2人は入籍しておらず、戸籍上、ひばりは生涯独身であった(小林は入籍を希望していたが、母が不動産処分の問題があるからと断り続けたとのこと)。

離婚直後に発表した『柔』は翌1965年にかけて大ヒット、180万枚というひばりとしては最大のヒット曲となる。この曲で1965年、第7回日本レコード大賞を受賞。

1966年には『悲しい酒』、1967年には『芸道一代』、『真赤な太陽』と、彼女の代表作となる作品が次々と発表され、健在ぶりを示した。

◆ 兄弟とひばりのトラブル

1981年には実母・喜美枝が転移性脳腫瘍により68歳で死去、また父親の代わりを担っていた田岡一雄も相次いで亡くなった。

1982年には「三人娘」以来の親友だった江利チエミが45歳で急死、さらには実弟だったかとう哲也(1983年没)と 香山武彦(1986年没)が、共に42歳の若さで次々と亡くすという悲運が続いた。

ひばりは哲也の実子である加藤和也を1977年に養子として迎えていたが、悲しみ、寂しさを癒やすために嗜んでいた酒とタバコの量は日に日に増し、徐々に体を蝕んでいった。

◆ 晩年の病魔との闘い

1985年、この頃からひばりは原因不明の腰痛を訴え、徐々に腰の痛みが悪化していく中でも、ひばりは微塵も感じさせない熱唱を見せていた。

だが2年後の1987年(昭和62年)4月22日、公演先の福岡市で極度の体調不良を訴え、同市中央区の福岡県済生会福岡総合病院に緊急入院。

重度の慢性肝炎および両側大腿骨骨頭壊死と診断され、約3か月半にわたり同病院にて療養に専念となった(ただし、入院当時実際の病名は肝硬変であったが、一切発表しなかった。ひばりの病状は深刻だったが隠し通して、公表する病名の程度を低くしていた)。

またそれにともない同年5月に予定された、明治座の公演中止を発表。

8月3日に無事退院を果たし、10月9日に行われた、新曲『みだれ髪』のレコーディング(シングルレコード発売は12月10日)より完全復帰した。

しかし、ひばりの病は決して完治したわけではなかった。肝機能の数値は通常の6割程度しか回復しておらず、特発性大腿骨頭壊死の治癒も難しいとされていた。

東京ドーム公演後を境に、ひばりの体調は急速に悪化していく。

1989年2月7日小倉公演までの10カ月の間、全国公演を含めテレビ番組収録などで精力的に仕事を行った。

1989年1月7日に昭和天皇が崩御。その翌日の同年1月8日、元号が「昭和」から「平成」へ移り変わったその日、ひばりは「平成の我 新海に流れつき 命の歌よ 穏やかに・・・」という短歌を詠んだ。

その3日後の1989年(平成元年)1月11日、『川の流れのように』のシングルレコードが発売される。しかしこの時のひばりの肺は、既に病に侵されていた。

1989年2月6日の福岡サンパレス公演日、持病の肝硬変の悪化からくるチアノーゼ状態となる。公演中の足のふらつきなど、舞台袖から見ても明らかであった。それでもひばりは周囲の大反対を押し切り、翌日の小倉公演までという約束でコンサートを強行した。

1989年2月7日、福岡県北九州市小倉での公演がひばりの生涯最後のステージとなる。

ひばりは全20曲無事に歌い終わった。翌日の1989年2月8日から、2年前と同じ済生会福岡総合病院に検査入院。

いったんは退院し、マスコミから避けて福岡の知人宅に2月下旬まで滞在した。その後、飛行機で東京へ帰京。

同年3月21日にはニッポン放送で「美空ひばり感動この一曲」と題する、10時間の特集番組へ自宅より生出演した。

ラジオ生放送終了直後、体調が急変したために東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院に再入院した。

◆ 死 去

再入院から2日後の1989年3月23日、「アレルギー性気管支炎の悪化」「難治性の咳」など呼吸器系の療養専念により、同年4月17日に予定されていた横浜アリーナでのこけら落としコンサートや、その他の全国ツアーも全て中止、さらに歌手業を含めた芸能活動の年内休止を、息子の和也から発表された。

5月29日は病室で52歳の誕生日を迎えたが、同年6月13日にひばりは意識不明の重体に陥り、人工呼吸器がつけられていた。

ひばりの生涯最後の言葉は、順天堂病院の医師団に対して「よろしくお願いします」だったという。

1989年(平成元年)6月24日午前零時過ぎ、間質性肺炎による呼吸不全のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去した。52歳没。

特記事項

美空ひばりの通算レコーディング曲数は1500曲、オリジナル楽曲は517曲であった。

◆ 美空ひばり / 代表曲 (シングル売上)

◇ 柔(1964年) - 190万枚 ※ 第7回 日本レコード大賞受賞曲
◇ 川の流れのように(1989年) - 150万枚 ※第31回 日本レコード大賞特別栄誉歌手賞受賞曲
◇ 悲しい酒(1966年) - 145万枚
◇ 真赤な太陽(1967年) - 140万枚
◇ リンゴ追分(1952年) - 130万枚
◇ みだれ髪(1987年)
◇ 港町十三番地(1957年)
◇ 波止場だよ、お父つぁん(1956年)
◇ 東京キッド(1950年)
◇ 悲しき口笛(1949年)

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