追悼の森 =竹下登元首相死去=

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第74代 内閣総理大臣  竹下 登 さん死去

2000年(平成12年)6月19日 死去 享年76歳

竹下登写真  

第74代 内閣総理大臣  竹下 登 元首相死去

第74代 内閣総理大臣 竹下 登(たけした のぼる)元首相が2000年(平成12年)6月19日午前零時13分、すい臓がん(発表では脊椎変形症による呼吸不全)のため東京都港区の北里研究所病院で死去した。76歳だった。

1958年(昭和33年)に衆議院議員に初当選。以来、連続14回の当選を果たした。1987年(昭和62年)11月、第74代 内閣総理大臣に就任した。昨年4月から足腰の痛みを訴えて入院。今年5月1日には 本人不在のまま、病床で録音したテープによって政界引退が発表された。

人物 / 略歴

竹下 登(たけした のぼる、1924年〈大正13年〉2月26日 ~ 2000年〈平成12年〉6月19日)

島根県飯石郡掛合村(現:雲南市)に生まれる。政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。

島根県議会議員、衆議院議員(14期)、内閣官房長官(第35・38代)、建設大臣(第38代)、大蔵大臣(第84・86・87・90代)、内閣総理大臣(第74代)などを歴任した。

◆ 略 歴

島根県飯石郡掛合村(現:雲南市)に父・竹下勇造、母・唯子の長男として生まれた。

竹下家は300年つづいた旧家で、江戸時代には庄屋を務め、幕末の1866年から代々造り酒屋を営んでいる。登は竹下家12代当主である。

◆ 学生時代

1941年(昭和16年)、旧制島根県立松江中学校を卒業する。

1年間の浪人生活をおくったのち、早稲田第一高等学院に入学。

1944年(昭和19年)4月、早稲田大学商学部に入学。その直前の3月、素封家の娘・竹内政江と学生結婚をする。

1944年(昭和19年)8月、軍隊に入ると同時に、陸軍特別操縦見習士官の第四期生に志願する。飛行第244戦隊に在隊。

1945年(昭和20年)3月、実母・唯子が41歳の若さで京都の病院で死亡。

1945年(昭和20年)5月、妻・政江が自殺。妻の自殺理由に関する噂は生涯、竹下を苦しめた。自殺する少し前、舅・勇造による執拗な“干渉”に思い悩んでいた政江は、竹下に相談するため、わざわざ島根から上京していたが、竹下は「お前のほうに問題がある」と逆に叱責したという。

1946年(昭和21年)1月、遠縁にあたる遠藤直子と結婚。

1947年(昭和22年)9月、早稲田大学商学部を卒業する。

◆ 初当選

島根県議会議員2期を経て、島根県全県区から第28回衆議院議員総選挙に34歳で立候補し、1958年(昭和33年)5月に初当選。

その後も衆議院議員総選挙で、連続14回当選した(最後の選挙区は小選挙区制になっての初の選挙で島根2区から出馬)。

◆ ニューリーダーへ

自民党内では佐藤派、後に田中派に所属。

1964年(昭和39年)11月に佐藤内閣が誕生すると、内閣官房長官に就任した橋本の推薦で内閣官房副長官となり、次代を担うニューリーダーとして次第に頭角を現す。

また、長女・一子が金丸信の長男・康信に嫁ぎ、金丸信との盟友関係はより一層強固なものとなった。この結婚は、佐藤栄作の妻・寛子のすすめによるという。

1971年(昭和46年)7月、就任当時歴代最年少となる47歳で第3次佐藤内閣の内閣官房長官として初入閣。田中内閣でも再び内閣官房長官となる。

その後も三木内閣で建設大臣、大平内閣で大蔵大臣を歴任した。中曽根内閣では4期連続して大蔵大臣に就任。先進5カ国がドル高是正で一致した1985年(昭和60年)の「プラザ合意」に加わった。

◆ 創政会結成から新派閥経世会誕生へ

1985年(昭和60年)2月、派閥領袖の元首相・田中角栄に反旗を翻す形で、金丸らの協力を得て田中派内に勉強会「創政会」を結成。

反田中派の動きに激昂した田中の猛烈な切り崩しに遭うも、田中はそのさなかに脳梗塞で倒れる。

やがて田中派内部は派閥会長の二階堂進派と創政会派、そして派内融和の中間派の三つに分かれる。

その後、竹下は1987年(昭和62年)7月、「経世会」(竹下派)として正式に独立。竹下派には田中派141人のうちの118人が参加し党内最大派閥の領袖となった。

このときのメンバーだった橋本龍太郎、小渕恵三、梶山静六、小沢一郎、羽田孜、そして田中側近の小沢辰男に近いことから当初参加せず後から参加した奥田敬和、口が軽いとみられ早稲田の後輩ながら誘われなかった渡部恒三は後に竹下派七奉行と呼ばれた。

◆ 内閣総理大臣 / 昭和最後の総理大臣

経世会を結成した1987年(昭和62年)の11月に、中曽根康弘首相の裁定により安倍晋太郎、宮澤喜一の2人を抑え第12代自民党総裁、第74代内閣総理大臣に就任した。

首相としては初の地方議会議員出身者で、同時に初の自民党生え抜きであった。また竹下は昭和最後の総理大臣でもあった。

首相時代の答弁は「言語明瞭・意味不明瞭」と評され、回りくどい表現が多いことで有名だった。

支持率がついに3.9%に落ち込むまでに至り、財界も石原俊らが公然と竹下の退陣を迫り、1989年(平成元年)6月3日に内閣総辞職に追い込まれた。内閣総辞職直前には竹下登邸周辺でデモも起きた。

◆ 総理大臣退任後

首相辞職後も表向きは「玉拾いに徹する。」と言いつつも宇野宗佑、海部俊樹、宮澤喜一という歴代の内閣誕生に関与するなど、政権に強い影響力を持っていた。

1993年(平成5年)7月18日の総選挙で自民党は過半数割れし、新生党、社会党、日本新党など非自民8党連立による細川内閣が誕生。

自民党は1994年(平成6年)の社会党との連立による村山内閣発足を機に政権に復帰。村山内閣誕生に竹下も深く関与したことから再び隠然たる影響力を持つようになり、村山内閣後は竹下派出身者による橋本内閣、小渕内閣を実現させた。

竹下は、1999年(平成11年)4月から体調不良のため北里研究所病院に入院、表舞台にでることは少なくなった。

容態は次第に悪化し、2000年(平成12年)5月1日、病床で録音した竹下の引退宣言のテープを、当時の竹下派の最高幹部たちが本人不在のなかで記者会見において発表した。

そこで次回の衆議院議員選挙に立候補しないことを表明し、政界からの引退を宣言した。引退表明後は議員でなくなったことで気力が失われたのか急激に弱っていったという。

第42回総選挙期間中の2000年(平成12年)6月19日、北里研究所病院にて膵臓癌、発表では脊椎変形症による呼吸不全のため死去、76歳没。

特記事項

自由民主党の最大派閥であった経世会の創設者。

総理大臣としてはふるさと創生1億円、消費税導入などを行った。リクルート事件により総辞職したが、その後も政界に甚大な影響力を誇った。

選挙区地盤を譲られた異母弟の竹下亘は錦織淳らを退け当選している。

竹下を偲び、生前交流があった関係者の好意、浄財によって、7回忌に当たる2006年(平成18年)5月、竹下登記念館が建てられた。

◆ 竹下登 / 著 書

◇ 『素晴らしい国・日本~私の「ふるさと創生論」』講談社、1987年10月。
◇ 『証言・保守政権』読売新聞社、1991年11月。
◇ 『竹下登 平成経済ゼミナール?数字で見る戦後の日本』日経BP出版センター、1995年12月。
◇ 『政治とは何か?竹下登回顧録』講談社、2001年1月。

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