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プロレスラー  力道山 死去

1963年(昭和38年)12月15日 死去 享年39歳

力道山写真  

プロレスラー  力道山 死去

大相撲力士出身のプロレスラー 力道山(りきどうざん)が1963年(昭和38年)12月15日午後9時過ぎ、穿孔(せんこう)性化膿性腹膜炎のため東京都内の病院で死去した。39歳だった。

1940年(昭和15年)、二所ノ関部屋の力士として初土俵を踏んだ。その後、プロレスに転向し、1953年(昭和28年)に日本プロレス協会を設立した。その興行はテレビ放送が始まったことに追い風を受け全国民の支持を受けて大ブームとなった。遊興中に男と口論になり腹部を刺され治療を受けていた。

人物 / 略歴

力道山(りきどうざん、1924年11月14日 ~ 1963年12月15日)

太平洋戦争前の日本併合下の朝鮮半島咸鏡南道洪原郡新豐里(現在の北朝鮮統治範囲)出身。 後に長崎県大村市の農家の百田家の養子となった。

本名、戸籍名、日本名は 百田 光浩(ももた みつひろ)。 旧名、出生名、朝鮮名は 金 信洛(キム シルラク)。

日本のプロレスラー。大相撲の力士出身。

第二次世界大戦終了後に日本のプロレス界の礎を築き、日本プロレス界の父と呼ばれている。

身長176cm(プロレス時代の公称身長は180cm)、体重116kg。

◆ 略 歴

◆ 力士時代

二所ノ関部屋に入門し、1940年5月場所初土俵。1946年11月場所に入幕。1948年5月場所では殊勲賞を受賞している。

1949年5月場所に関脇に昇進するが、1950年9月場所前に突然、自ら髷(まげ)を切り廃業。

相撲界から引退時、百田の戸籍に長男として入籍。

◆ プロレス転身

その後、プロレス転向を決意し、港区芝にあったシュライナーズ・クラブで指導を受けるようになった。

1952年に渡米し、ホノルルで日系人レスラー沖識名の下で猛特訓を受けた。

翌年帰国して新田新作と興行師永田貞雄の助力を得て日本プロレス協会を設立する。

そしてシャープ兄弟を招聘し、1954年2月19日から全国を14連戦した初興行は、テレビ放送が1953年にテレビ放送が始まったことに追い風を受け、全国民の支持を受けて大ブームとなる。

この興行でシャープ兄弟組と戦う時の力道山のタッグパートナーは、柔道史上最強と謳われる木村政彦だった。

しかし、いつも負け役は木村で、その木村を助けに入った力道山が空手チョップで倒すというブック(プロレス界の隠語で試合進行台本)に嫌気がさした木村政彦は、これで力道山とは袂を分かって自身の団体で興行を打っていくことになった。

木村政彦は「真剣勝負なら負けない」と怒りをぶちまけ、挑戦を表明した。これが「昭和の巌流島」といわれるあの謎の試合に繋がっていく。

力道山は挑戦に応じ、1954年12月22日、「相撲が勝つか柔道が勝つか」と騒がれたプロレス日本ヘビー級王座の決定戦が行われた。

試合途中、力道山が突然殴りかかり、木村は大量の血を吐き、マットに大きな血だまりができた。観客たちも驚き、会場は静まりかえった。明らかに普通のプロレスではなかった。

その試合後、この試合が八百長崩れであったことが露呈するようになった。2人共に頭に血が昇っての惨事であり、プロレスの権威失墜だった。

柔道王として誇りを持って生きてきた木村は敗れて恥をかかされ、この一戦以来、人生のどん底に落ちていく。

そして力道山が八百長破りをやったことを許せず、力道山を殺すために短刀を持って力道山を付け狙った。また、木村を兄と慕っていた空手の大山倍達も力道山を付け狙う。

謎の力道山対木村政彦戦後は少しプロレスブームも下火になったが、すぐに力道山は盛り返し一気に国民的スターに登り詰めていく。

1963年1月、韓国側の招きで韓国を訪問し、金浦空港で体育協会、レスリング関係者約60人に出迎えられた。

1963年5月24日、東京体育館で行われたWWA世界選手権・ザ・デストロイヤー戦は平均視聴率で実に64.0%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。

1963年12月8日午後10時30分に、遊興中の赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、暴力団住吉一家傘下の大日本興業構成員であった村田勝志と足を踏んだ、踏まないで口論になり、馬乗りになって殴打したところ、村田に下から登山ナイフで腹部を刺された。

だが、自ら持ちかけた喧嘩ということもあり表沙汰にはせず、知り合いの勤める山王病院に入院。12月15日に化膿性腹膜炎で死去した。

特記事項

朝鮮在住時代に既に結婚しており子供もいたことからみて、実際は公称生年月日よりも5年くらい早く生まれている可能性もある。

◆ 力道山 / 死去の顛末

1日目は応急手当を受け帰宅。

2日目に症状が悪化したため入院、外科医に山王病院へ来てもらい30針縫う手術を受け成功。山王病院は産科婦人科が中心の病院だが、力道山がここを選んだのは、話を大きくしないため親しい医者のいる病院にしたという。

側近たちは、赤坂にある有名な外科病院である前田外科への入院を勧めたが、力道山は嫌がったという。

7日目に腹膜炎による腸閉塞を理由に午後2時30分再手術。これも成功したと報告されるが、その約6時間後の午後の9時過ぎに死亡した。

なお、死因は正式には穿孔(せんこう)性化膿性腹膜炎とされている。

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