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俳優  宇野 重吉 さん死去

1988年(昭和63年)1月9日 死去 享年73歳

宇野重吉写真  

俳優  宇野重吉 さん死去

劇団民藝の創設者で俳優の 宇野 重吉(うの じゅうきち)さんが1988年(昭和63年)1月9日、死去した。73歳だった。

1950年(昭和25年)、劇団民藝を創設。戦前から戦後にかけて長く演劇界をリードしてきた。晩年は癌と戦い、胃の大半、左肺の半分を失いながらも地方公演を続けていた。死の2週間前まで点滴を受けながら舞台に立ち、舞台での最後のセリフ「石にかじりついても、この道を歩いていきます」は、そのまま別れのメッセージとなった。

人物 / 略歴

宇野 重吉(うの じゅうきち、1914年9月27日 ~ 1988年1月9日)

福井県足羽郡下文殊村(現在の福井市)出身。本名は寺尾 信夫(てらお のぶお)。

昭和初期から末期の俳優、演出家。芸名は中野重治と鈴木三重吉に由来している。

滝沢修らと共に劇団民藝の創設者であり、第二次世界大戦前から戦後にかけて、長く演劇界をリードしてきた歴史に名を残す俳優である。リアリズムを基調とした近代的な芸を追求していた。

◆ 略 歴

旧制福井中学(現・福井県立藤島高等学校)を経て日本大学芸術科に進む。

大学を中退して、東京左翼劇場に入る。

1932年、築地小劇場の左翼劇場と新築地劇団の合同公演で初舞台。

1934年、新協劇団の結成に参加。
1941年から1943年には、日本移動演劇連盟加盟の瑞穂劇団に参加。
1946年に第二次新協劇団に加入。
1947年に第一次民衆芸術劇場(第一次民藝)を創設。1949年に内紛で解散。
1950年に劇団民藝を創設。

中国や近代日本の題材なども扱い、確かな演技力と斬新な演出により、民藝を国内有数の劇団に育て上げた。

1946年には、有馬稲子や新珠三千代などのスターを起用して、話題にもなった。

1954年、製作再開した日活が5社協定の締め出しによって出演俳優不足に悩んでいた際は民藝と提携契約を締結。多くの劇団俳優を日活映画に出演させ、自身も出演した。

1964年には、大河ドラマ『赤穂浪士』の蜘蛛の陣十郎役で、茶の間の人気者に。舞台にとどまらず、テレビや映画でも幅広く活躍した。

1971年には「劇団は創立者だけの物である」という劇団一代論を発表して演劇界に衝撃を与える。

1981年には紫綬褒章を受章。

1985年9月からは、宇野重吉一座をたちあげ、気軽に芝居を観に劇場に来られない地方の人のために、地方公演をはじめる。

晩年は癌と戦い、胃の2/3、左肺の半分を失いながらも地方公演を続けていた。

1988年(昭和63年)1月9日、死去。73歳没。三越劇場での『馬鹿一の夢』が最後の舞台となった。

特記事項

長男は俳優の寺尾聰である。

◆ 宇野重吉 / 主な出演舞台

◇ どん底(1936年)
◇ 破戒(1948年)
◇ その妹(1955年)
◇ アンネの日記(1956年)
◇ イルクーツク物語(1960年)
◇ オットーと呼ばれる日本人(1962年)
◇ 初恋(1963年)
◇ 泰山木の木の下で(1963年)
◇ ゴドーを待ちながら(1965年)
◇ 汚れた手(1967年)
◇ 夕鶴(1968年)
◇ かもめ(1969年)
◇ にんじん(1970年)
◇ 三人姉妹(1972年)
◇ 円空遁走曲(1973年)
◇ 桜の園(1974年)
◇ わが魂は輝く水なり(1980年)
◇ エレジー・父の夢は舞う(1983年)
◇ 三年寝太郎(1986年)

◆ 宇野重吉 / 出演CM

◇ 松竹梅(宝酒造) - 石原裕次郎と共演。

◆ 宇野重吉 / 著書

◇ 新劇・愉し哀し 理論社(1969年)
◇ 光と幕 村山書店(1957年)
◇ チェーホフの『桜の園』について 麦秋社(1978年)

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