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第68~69代 内閣総理大臣  大平正芳 さん死去

1980年(昭和55年)6月12日 死去 享年70歳

大平正芳写真  

第68~69代 内閣総理大臣  大平正芳 さん死去

第68~69代 内閣総理大臣 大平 正芳(おおひら まさよし)首相が1980年12日午前5時過ぎ、心筋梗塞による心不全のため東京都港区の虎の門病院で死去した。70歳だった。

1978年(昭和53年)12月、第68代内閣総理大臣に就任した。1980年、第2次大平内閣時、不信任決議案の可決を受けて衆議院を解散(ハプニング解散)、衆参同時選挙を実施した。総選挙が公示された5月30日、街頭演説の直後から体調を崩し、翌日、過労と不整脈で入院していた。

人物 / 略歴

大平 正芳(おおひら まさよし、1910年(明治43年)3月12日 ~ 1980年(昭和55年)6月12日)

香川県三豊郡和田村(現:観音寺市)に生まれる。大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。

衆議院議員(11期)、内閣官房長官(第21・22代)、外務大臣(第92・93・100・101代)、通商産業大臣(第31代)、大蔵大臣(第79・80代)、内閣総理大臣(第68・69代)などを歴任した。

◆ 略 歴

香川県三豊郡和田村(現観音寺市)の農家大平利吉・サクの三男として生まれる。兄2人、姉3人、弟妹がそれぞれ1人ずつの8人兄弟であったが、正芳が生まれた時長女は満1歳で、兄の1人も2歳半で既に亡くなっていた。

子供6人を抱えた大平家の生活は苦しいもので、正芳も幼い頃から内職を手伝うなどして家計を支えていた。

和田村立大正尋常高等小学校(現観音寺市立豊浜小学校)、旧制三豊中学校(現香川県立観音寺第一高等学校)に進んだ。

1926年(大正15年)、三豊中4年の時大平は腸チフスに罹り4ヶ月間生死の境をさまよった。

1927年(昭和2年)夏、父利吉が急死する。

翌1928年(昭和3年)4月、親戚からの援助や奨学金を得て高松高等商業学校(現香川大学経済学部)に進学。

自身の病や父の死を立て続けに経験した大平はキリスト教に傾倒し、1929年暮れに観音寺教会で洗礼を受けた。

卒業後、桃谷勘三郎の食客となり桃谷順天館で化粧品業に携わった。

1933年(昭和8年)、再び学業に戻ることを決意。鎌田共済会と香川県育英会の2つの奨学金を得て東京商科大学(現一橋大学)に進学した。大平23歳の時のことである。

卒業論文は「職分社会と同業組合」。

◆ 大蔵省時代

1935年(昭和10年)、高等試験行政科試験合格。

当時大蔵次官だった同郷の津島壽一に挨拶に行った折、「ここで採用してやる」という型破りな方法で大蔵省への採用が決まった。

1936年入省、預金部に配属。以後、税務畑を中心に以下の役職を歴任した。

◇ 1937年(昭和12年) - 横浜税務署長。
◇ 1938年(昭和13年) - 仙台税務監督局間税部長。どぶろく退治に尽力。
◇ 1939年(昭和14年) - 興亜院にて大陸経営にかかわり、1939~40年に張家口の蒙疆連絡部で勤務。以後も頻繁に大陸に出張。
◇ 1942年(昭和17年) - 本省主計局主査(文部省・南洋庁担当)。
◇ 1943年(昭和18年) - 東京財務局関税部長。
◇ 1945年(昭和20年) - 津島壽一大蔵大臣の秘書官
◇ 1946年(昭和21年) - 初代給与局第三課長
◇ 1948年(昭和23年) - 経済安定本部建設局公共事業課長
◇ 1949年(昭和24年) - 池田勇人蔵相秘書官。以後1952年まで務める。
◇ 1950年(昭和25年) - 国税庁関税部消費税課長兼任

◆ 政治家としての活動

1952年(昭和27年)、大蔵省時代の上司だった池田勇人の誘いを受け、大蔵省を退官し自由党公認で衆議院議員に立候補し当選。以後、連続当選11回。

1960年(昭和35年)に第1次池田内閣で官房長官に就任。第2次池田内閣・同第1次改造内閣でも官房長官を務め、続く第2次池田再改造内閣で外務大臣に就任した。

外相時代は韓国との国交正常化交渉を巡って、日韓交渉で最も大きな役割を果たした政治家である。

◆ 宏池会会長

次の佐藤政権では政調会長を務めた後、第2次佐藤内閣の2度目の改造内閣で通商産業大臣、第1次・第2次田中内閣で再び外務大臣、第2次田中改造内閣・三木内閣で大蔵大臣を務めるなど、内政外政にかかわる要職を歴任した。

1971年(昭和46年)、「大平クーデター」で前尾繁三郎にかわって宏池会会長に就任、名実ともにポスト佐藤時代のリーダー候補として名乗りをあげた。

田中内閣で外務大臣だったときに中国を訪問、それまでの台湾との日華平和条約を廃し、新たに日中の国交正常化を実現させた。

三木内閣では引き続き蔵相を務めるが、このときに10年ぶりの赤字国債発行に踏み切り、以後、日本財政の赤字体質が強まったことが後年の消費税導入による財政健全化への強い思いへとつながっていく。

1976年(昭和51年)福田首相・大平幹事長体制が確立した。

◆ 総理大臣就任

1978年(昭和53年)の自民党総裁選挙に田中派の全面支援の下、総裁予備選挙で福田を上回る票を獲得。この結果を受けて福田は本選を辞退、大平総裁が誕生し、1978年12月7日に第68代内閣総理大臣に就任した。

◆ 四十日抗争と衆参同日選挙

1980年(昭和55年)5月16日、社会党が内閣不信任決議案を提出。政権反主流派はその採決に公然と欠席してこれを可決に追い込んだ。

大平は不信任決議案の可決を受けて衆議院を解散(ハプニング解散)、総選挙を参議院選挙の日に合せて行うという秘策・衆参同日選挙で政局を乗り切ろうとした。(この時同時実施された選挙は第36回衆議院議員総選挙と第12回参議院議員通常選挙である。)

◆ 急 死

総選挙が公示された5月30日、大平は第一声を挙げた新宿での街頭演説の直後から気分が悪くなり、翌日過労と不整脈で虎の門病院に入院した。

大平入院により、反主流派の中川一郎は大平ではヴェネツィアサミット出席が難しいことを理由に進退を決すべきと発言。河本敏夫は、暗に大平退陣を要求するなど反主流派の一部から大平退陣の声があがった。

また、6月9日には大平派の鈴木善幸が大平の後は話合いによる暫定政権が好ましいと記者団に語るなど大平派からも大平退陣について発言する動きがあがった。

この鈴木発言を新聞でみた大平は「浅薄な腹黒者、不謹慎極まりない」と激怒したと言われている。

一時は記者団の代表3人と数分間の会見を行えるほどに回復したものの、6月12日午前5時過ぎ容態が急変し、志げ子夫人以下家族たち、伊東正義、田中六助自民党副幹事長に看取られながら5時54分死去。70歳3ヵ月、突然の死だった。死因は心筋梗塞による心不全。

大平の死によって権限は、首相権限は伊東正義官房長官が首相臨時代理として、自民党総裁権限は西村英一自民党副総裁が総裁代行として、ヴェネツィアサミットには大来佐武郎外務大臣が代理出席し、3人に分かれた。

48年ぶりの現職総理の死去という想定外の事態は状況を一変させた。自民党の主流派と反主流派は弔い選挙となって挙党態勢に向かった。

有権者の多くも自民党候補に票を投じた。これは同情票として分析されており、結果、自民党は衆参両院で安定多数を大きく上回る議席を得て大勝した。

大平の選挙区であった香川2区も娘婿の森田一が補充立候補で急遽出馬し、当選を果たした。

特記事項

自身の病や父の死を立て続けに経験した大平はキリスト教に傾倒し、1929年暮れに観音寺教会で洗礼を受けた。

大学在学中も引き続きキリスト教の活動にも精力的に参加し、YMCA活動に従事した。

◆ 大平 正芳 / 栄 典

◇ 1980年(昭和55年)6月12日 - 贈大勲位菊花大綬章

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