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俳優、映画監督  伊丹十三 さん死去

1997年(平成9年)12月20日 死去 享年64歳

伊丹十三写真  

俳優、映画監督  伊丹十三 さん死去

監督デビュー作「お葬式」で映画監督としても注目を集めた 伊丹 十三(いたみ じゅうぞう)さんが1997年(平成9年)12月20日、 死去した。64歳だった。

同日午後6時30分過ぎ、東京都港区麻布台の伊丹プロダクションのある八階建てマンション下で遺体となって発見された。事務所にワープロ印字の遺書らしきものが残されていることから、飛び降り自殺とされているが 経緯について様々な推測が飛び交うことになった。

人物 / 略歴

伊丹 十三(いたみ じゅうぞう、1933年5月15日 ~ 1997年12月20日)

京都市右京区鳴滝泉谷町に生まれる。 戸籍名は池内 義弘(いけうち よしひろ)だが、家庭では岳彦(たけひこ)と呼ばれて育った。

日本の映画監督、俳優、エッセイスト、商業デザイナー、イラストレーター、CM作家、ドキュメンタリー映像作家である。

映画監督の伊丹万作は父。女優の宮本信子は妻。長男は池内万作(俳優)。次男は池内万平。作家の大江健三郎は義弟。ギタリストの荘村清志は従弟。

◆ 略 歴

京都市右京区鳴滝泉谷町に生まれる。

祖父の強い意向で義弘と命名されたが、父は岳彦と命名する予定だったため、家庭では父の意向により「岳彦」「タケチャン」と呼ばれて育った。

2歳の時、妹ゆかり(長じてのち1960年に大江健三郎と結婚)が誕生。

1940年、世田谷区立桜第一小学校入学。

1940年末、京都師範男子部附属国民学校(現・京都教育大学附属京都小学校)に転校。

1944年、同校の特別科学教育学級に編入される。この学級では、戦時中としては例外的な早期英語教育を受ける。

1946年、京都府立第一中学校(現・京都府立洛北高等学校)入学。この年に父が死去。

1947年10月、京都府立洛北高等学校併設中学校に転校。

1948年10月、京都府立山城高等学校併設中学校に転校。

1949年4月、京都府立山城高等学校に入学。

1950年4月14日、1学年遅れで愛媛県立松山東高等学校に転入。

1952年4月、愛媛県立松山南高等学校2年次に転入。

1954年3月、20歳で同校を卒業したが、大阪大学理工学部受験に失敗して上京。

◆ マルチタレントとして活躍

1960年1月、26歳の時大映に入社、「伊丹 一三」という芸名を永田雅一にもらい俳優となる。

1960年5月にスクリプター野上照代より、日本映画界の巨人である川喜多長政・川喜多かしこの娘の川喜多和子を紹介され、同年7月に結婚。

1961年、大映を退社する。その後『北京の55日』(1963年)『ロード・ジム』(1965年)などの外国映画に出演し、話題となる。

1962年に妻・和子と自主短編作品『ゴムデッポウ』を制作、1963年に勅使河原宏監督の「砂の女」と同時上映された。

1965年には、外国映画に出演した際のロケ道中をまとめたエッセイ『ヨーロッパ退屈日記』を出版しヒット。文筆業にも活動の場を広げた。

1966年10月26日、川喜多和子と協議離婚。

1967年、共演者の一人であった女優の宮本信子と出会う。同年、「マイナスをプラスに変える」意味で「伊丹 十三」と改名し、映画とテレビドラマで存在感のある脇役として活躍した。

1969年に山口瞳の媒酌で宮本と再婚。その後、子供を二人もうける(長男は俳優の池内万作、次男は池内万平)。

1970年代に入るとテレビ番組制作会社テレビマンユニオンに参加し、『遠くへ行きたい』等のドキュメンタリー番組の制作に関わり、自らレポートする。

俳優活動としては、『家族ゲーム』(1983年)、『細雪』(1983年)で、キネマ旬報賞助演男優賞、報知映画賞助演男優賞を受賞している。

◆ 映画監督への転身

1984年、51歳で、『お葬式』で映画監督としてデビューし、日本国内で高い評価をうける。この作品で受賞した映画賞は、日本アカデミー賞、芸術選奨新人賞を始めとして30を超えた。

その後も食欲と性欲の未分化な人びとを喜劇的に描いた『タンポポ』や国税局査察部・通称「マルサ」に対する徹底した取材を元にした『マルサの女』、ヤクザの民事介入暴力と戦う女弁護士を描いた『ミンボーの女』などの映画作品を作り、一躍当時の日本を代表する映画監督となり、「伊丹映画」というブランドを築く事に成功する。

1992年、特に『ミンボーの女』では、公開1週間後の5月22日夜に、自宅の近くで刃物を持った5人組に襲撃され、顔や両腕などに全治三ヶ月の重傷を負う。

しかし、「私はくじけない。映画で自由をつらぬく。」と宣言した。病院に搬送された際に取材陣から「大丈夫ですか!?」と声をかけられ、ピースサインで応えた。

警察は現場の車より山口組(稲川組)系後藤組の犯行であることを突き止めた。5人の組員が4年から6年の懲役刑となった。

1993年6月には自称右翼の男が『大病人』公開中の映画館のスクリーンを切り裂く事件が起こるなど数々の被害や脅迫・嫌がらせを受ける事となったが、襲撃事件により身辺警護を受けた。

1997年、身辺警護の経験は『マルタイの女』で映画化された。『タンポポ』はアメリカでも配給され評判となった。

◆ 突然の死と疑惑

1997年(平成9年)12月20日、伊丹プロダクションのある東京麻布のマンション下で遺体となって発見された。

当初から、経緯について様々な推測が飛び交うことになった。

事務所にワープロ印字の遺書らしきものが残されていて、そこに「死をもって潔白を証明する」との文言があったことから、写真週刊誌「フラッシュ」により不倫疑惑が取り沙汰されたことに対する抗議の投身自殺か、とも推測されるようになった。だが、手書きでなくワープロというのが不自然だとされた。

また死の5日前まで医療廃棄物問題の取材も続けていた。「飛び降り自殺」はまさにその直後のことであり、自殺直前の様子との不自然さから、その「自殺」には強い疑惑が持たれ続けている。

ジェイク・エーデルスタインが取材した人物によると、伊丹は当時後藤組と創価学会の関係を題材にした映画の企画を進めており実際1997年に公開された映画マルタイの女は創価学会を題材にしていた。

創価学会関係者や後藤組組長の後藤忠政がそれを快く思わず、後藤配下の5人が伊丹の体をつかんで銃を突きつけ屋上から飛び降りさせたと言う暴露が世に出た。

また、大島渚や立川談志など古くから伊丹十三を知る人物も、警察が死因を「自殺」と断定した後も「不倫報道ぐらいのことで、あいつは自殺しない」「飛び降り自殺は絶対に選ばない」と話し自殺を否定した。

また、2ちゃんねるでは伊丹の死には創価学会が関与したと断定する内容が流れ、その後、情報を掲載した管理者に80万円の支払いを命じる判決が下った。

特記事項

2007年5月、妻の宮本信子が中心となって、少年時代の一時期を過ごした愛媛県松山市に「伊丹十三記念館」をオープンさせた。

2008年、伊丹の生前の偉業を記念して伊丹十三賞を創設した。2009年から「言語表現を主軸としたもの」および「映像、ビジュアル表現を主軸としたもの」を毎年交互に選出し賞を贈っている。

◆ 伊丹十三 / 主な監督作品

◇ ゴムデッポウ(1962年)- 伊丹一三名義の初監督作品、第24回東京国際映画祭特別上映
◇ お葬式(1984年)
◇ タンポポ(1985年)
◇ マルサの女(1987年)
◇ マルサの女2(1988年)
◇ あげまん(1990年)
◇ ミンボーの女(1992年)
◇ 大病人(1993年)
◇ 静かな生活(1995年)
◇ スーパーの女(1996年)
◇ マルタイの女(1997年)

◆ 伊丹十三 / 出演CM

◇ ハウス ジャワカレー(1970年)
◇ 日産自動車 サニー(1990年)
◇ 味の素
◇ ツムラ
◇ 宝酒造 タカラcanチューハイ(1995年)、亜楽-ARAKU-(1997年)
◇ 一六タルト

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