追悼の森 =花菱アチャコさん死去=

I was thunderstruck at the news of his death

Top Page    有名人訃報一覧【は~ひ~ふ~へ~ほ】 著名人訃報一覧【は~ひ~ふ~へ~ほ】Etc-211
nagomi画像
Smart Phone
スマートフォンサイト訃報

漫才師、喜劇俳優  花菱アチャコ さん死去

1974年(昭和49年)7月25日 死去 享年77歳

花菱アチャコ写真  

漫才師、喜劇俳優  花菱アチャコ さん死去

漫才師、喜劇俳優として絶大な人気を誇った 花菱 アチャコ(はなびし あちゃこ)さんが1974年(昭和49年)7月25日、直腸がんのため死去した。77歳だった。

1913年(大正2年)に15歳で東明幸四郎と名乗り、千日前敷島倶楽部で初舞台を踏んだ。1930年(昭和5年)、横山エンタツとコンビを結成し 東京六大学野球をネタにした「早慶戦」などの「しゃべくり漫才」で人気を博した。ラジオ番組「チャコ青春手帖」が映画化されるなど、吉本バラエティの初期を支えた。

人物 / 略歴

花菱アチャコ(はなびし あちゃこ、1897年7月10日 ~ 1974年7月25日)

福井県出身。本名は藤木 徳郎。漫才師、俳優。

◆ 略 歴

1913年に15歳で新派の山田九州男(山田五十鈴の父)の一座に入り東明幸四郎と名乗り、千日前敷島倶楽部で初舞台を踏む。

1914年、神戸の「鬼笑会」一座に入り、漫才に転向し「花菱アチャコ」を名乗り菅原家千代丸と組む。

1919年に一度だけ横山エンタツと一座を組み、幕間に「しゃべくり漫才」を試演するが不評に終わり、客からはみかんの皮を投げられるほどであった。

1925年、吉本興業に入社。

1930年、当時吉本興業で総支配人、林正之助の勧めに従い、横山エンタツとコンビを組む。

当時人気のあった東京六大学野球をネタにした『早慶戦』などの「しゃべくり漫才」で人気を博す。

1934年、中耳炎にかかり入院、エンタツとのコンビを解消する。

退院後は舞台では千歳家今男とのコンビを復活させたが、映画では引き続きエンタツ・アチャコのコンビを継続した。一方で「アチャコ劇団」を旗揚げし、全国を巡業する。

戦後間もない時期には、長谷川一夫の『銭形平次捕物帳』など、映画の時代劇等でバイプレーヤーとしても活躍している。

1952年に長沖一原作のラジオ番組『アチャコ青春手帖』が大ヒット作となり映画化された。後番組で、引き続き浪花千栄子と共演した『お父さんはお人好し』も人気を博し、これも映画化された。

1959年に吉本興業が演芸部門を再開させると、アチャコは吉本の一枚看板として吉本バラエティの初期を支えた。

テレビが日本の家庭に普及しつつあった高度成長期には、「滅茶苦茶でごじゃりまするがな」や「さいなもうー・・・」の台詞で一世を風靡した。

1974年(昭和49年)7月25日、直腸癌のため死去した。77歳没。

特記事項

弟子には、粋曲漫談の のれん太郎。漫談の鶴乃一声。岡八朗。石川大介(付き人)。石川寿子(付き人)。西川花助(付き人)などがいる。

孫のアチャマゴ久利(藤木久利)はミュージシャンで、「アチャコ一座」というバンドを結成して活動している。

また、大阪市中央区高麗橋に 子孫が経営する居酒屋「ACHAKO」がある。

◆ A Related Words :
横山エンタツ花菱アチャコ/花菱アチャコ 流行語/花菱アチャコが流行させたフレーズ/花菱アチャコのフレーズ/横山エンタツ、花菱アチャコ/花菱アチャコ プロフィール/花菱アチャコ 略歴/花菱アチャコ 死去/花菱アチャコ 訃報

Page Top

スマートフォン / PC サイト