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第55代 内閣総理大臣  石橋湛山 さん死去

1973年(昭和48年)4月25日 死去 享年88歳

石橋湛山写真  

第55代 内閣総理大臣  石橋湛山 さん死去

第55代 内閣総理大臣 石橋 湛山(いしばし たんざん)元首相が1973年(昭和48年)4月25日 死去した。88歳だった。

1956年(昭和31年)12月23日、保守合同後初の自民党総裁選を制して内閣総理大臣に指名されるが 在任2ヵ月弱で脳梗塞を発症して退陣した。首相在任期間は65日で、日本国憲法下において国会で一度も演説や答弁をしないまま退任した唯一の首相となった。後任の首相には岸信介が任命された。

人物 / 略歴

石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年(明治17年)9月25日 ~ 1973年〈昭和48年〉4月25日)

東京市麻布区芝二本榎(現:港区)に生まれる。ジャーナリスト、政治家、教育者(立正大学学長)。

階級は陸軍少尉(陸軍在籍時)。位階は従二位。勲等は勲一等。

大蔵大臣(第50代)、通商産業大臣(第12・13・14代)、内閣総理大臣(第55代)、郵政大臣(第9代)などを歴任した。

◆ 略 歴

日蓮宗僧侶 杉田湛誓と、きん夫妻の長男、省三(せいぞう)として生まれる。

石橋家は日蓮宗承教寺の有力な檀家であった。故あって母方の石橋姓を名乗った。

◆ 学生時代

1889年(明治22年)に、甲府市立稲門尋常小学校に入学する。

1894年(明治27年)に湛誓が静岡市の日蓮宗本山青龍山本覚寺の住職に転じる事になり、山梨県中巨摩郡鏡中条村(旧・同郡若草村 → 若草町、現・南アルプス市)に在る長遠寺の住職である望月日顕(後に身延山久遠寺83世法主)に預けられる。

以来実質的な親子の関係は絶たれて、幾度となく手紙を出すが父母からの返事はもらえなかったという。

1902年(明治35年)3月に、山梨県立第一中学校を卒業する。中学を卒業する頃に、湛山と改名している。

翌月に、第一高等学校(現・東京大学教養学部)受験の為に上京。その際に、正則英語学校に通っている。

同年7月の試験は、不合格であった。翌年に再度受験するが、またもや失敗し、早稲田大学高等予科の編入試験を受けて合格して9月に入学する。こうして、東京での下宿生活が始まる。

◆ ジャーナリスト時代

1908年(明治41年)12月に、 島村抱月の紹介で毎日新聞社(旧横浜毎日新聞や旧東京横浜毎日新聞で、当時は東京毎日新聞を出している。現在の毎日新聞社とは無関係)に入社する。

兵役を経て東洋経済新報社に入社する。

1924年(大正13年)12月に第五代主幹となり、翌年1月には代表取締役専務(社長制となるのは、1941年以降)に就任する。また同年から1936年(昭和11年)まで鎌倉町議会議員を務める。

日中戦争勃発から敗戦に至るまで『東洋経済新報』誌上にて長期戦化を戒める論陣を張っている。同誌は政府・内務省から常に監視対象にされてインクや紙の配給を大きく制限されたが廃刊は免れる。

◆ 政界へ

1946年(昭和21年)に日本自由党から総選挙に出馬して落選するものの、第1次吉田内閣の大蔵大臣として入閣する。

大蔵大臣在任時にはデフレーションを制える為のインフレーションを進めて、傾斜生産(石炭増産の特殊促進)や復興金融公庫の活用を特徴とする「石橋財政」を推進する。

戦勝国アメリカに勇気ある要求をした石橋は国民から“心臓大臣”と呼ばれるもアメリカに嫌われ、1947年(昭和22年)に第23回衆議院議員総選挙で静岡2区(中選挙区)から当選したが、公職追放令によりGHQによって公職追放された。

この公職追放は吉田茂が関わっていると云われた。1951年(昭和26年)の追放解除後は、吉田の政敵であった自由党・鳩山派の幹部として打倒吉田に動いた。

1954年(昭和29年)の第1次鳩山内閣で通商産業大臣に就任した。

石橋は中華人民共和国、ソビエト連邦との国交回復などを主張したが、アメリカの猛反発を受ける。

1955年(昭和30年)11月、日中輸出入組合の結成を支援し中国との貿易が軌道に乗るようになる。

同年11月15日の保守合同により、鳩山の日本民主党と吉田から継承した緒方竹虎の自由党が合同し自由民主党が結成され、石橋も合流入党した。

◆ 総理総裁

1956年(昭和31年)12月、鳩山首相が引退。

これを受けてアメリカ追従を主張する岸信介が自民党総裁選に立候補、これに対し石橋は社会主義圏とも国交正常化することを主張、鳩山派の一部を石橋派として率いて立候補した。

総裁選の決選投票では石橋派参謀の石田博英の功績もあって岸に7票差で競り勝って総裁に当選、12月23日に内閣総理大臣に指名された。

しかしながら組閣が難航したため、石橋自身が一時的にほぼ全ての閣僚の臨時代理・事務取扱を兼務して発足している(一人内閣)。

内閣発足直後に遊説行脚を敢行、自らの信念を語るとともに有権者の意見を積極的に聞いてまわった。

しかし帰京した直後に自宅の風呂場で倒れる。

副総理格の外相として閣内に迎えられていた岸信介がただちに総理臨時代理となったが、2ヵ月の絶対安静が必要との医師の診断を受けると、石橋は「私の政治的良心に従う」と潔く退陣した。

石橋の首相在任期間は65日で、東久邇宮稔彦王・羽田孜に次ぐ歴代で3番目の短さである。

日本国憲法下において、国会で一度も演説や答弁をしないまま退任した唯一の首相となった。後任の首相には岸が任命された。

◆ 退陣後

幸い脳梗塞の症状は軽く、若干の後遺症は残ったものの石橋はまもなく政治活動を再開するまでに回復した。

1959年(昭和34年)9月、岸より「同盟国アメリカの意思に反する行為であるため日本政府とは一切関係ないものとする」と言われながらも中華人民共和国を訪問した。同月17日周恩来首相との会談を実現させた。

その後も少数派閥ながら石橋派の領袖として影響力を持ち、岸が主導した日米安保条約改定には批判的な態度をとるなど自民党内ハト派の重鎮として活躍したが1963年の総選挙で落選し、そのまま政界を引退した。

1973年(昭和48年)4月25日 死去した。88歳だった。

特記事項

早稲田大学から名誉法学博士(Doctor of Laws)を贈られている。

◆ 石橋湛山 / 主な書籍(評論集)

◇ 石橋湛山評論集 (松尾尊兌・編、岩波文庫、1984年。ワイド版岩波文庫、1991年。)
◇ 小日本主義-石橋湛山外交論集 (増田弘・編、草思社、1984年5月。)
◇ 石橋湛山評論選集 (1990年6月、東洋経済新報社。)
◇ リベラリストの警鐘 石橋湛山著作集1-経済論 (長幸男・編、東洋経済新報社、1995年11月。)
◇ エコノミストの面目 石橋湛山著作集2-経済論 (中村隆英・編、東洋経済新報社、1995年11月。)
◇ 大日本主義との闘争 石橋湛山著作集3-政治・外交論 (鴨武彦・編、東洋経済新報社、1996年1月。)
◇ 改造は心から 石橋湛山著作集4-文芸・社会評論 (谷沢永一・編、東洋経済新報社、1995年12月。)
◇ 石橋湛山全集(全15巻、全集編纂委員会・編、東洋経済新報社、1970~72年。)

◆ 石橋湛山 / 主な書籍(回想録 ・ 日記)

◇ 湛山回想 (岩波文庫、1985年12月。)
◇ 湛山座談 (同時代ライブラリー:岩波書店、1994年2月。)
◇ 石橋湛山 「湛山回想」 (人間の記録47:日本図書センター、1997年12月。)
◇ 石橋湛山日記 (上下2冊組、石橋湛一・伊藤隆編、2001年3月。)
◇ 同 上巻。下巻。1945年1月1日から1957年1月23日までの日記。

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