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右翼運動家 児玉誉士夫 さん死去

1984年(昭和59年)1月17日 死去 享年72歳

児玉誉士夫写真  

右翼運動家 児玉誉士夫 さん死去

「政財界の黒幕」フィクサーと呼ばれた 児玉誉士夫(こだま よしお)さんが 1984年(59年)1月17日、 死去した。 72歳だった。

対韓経済援助リベート問題、インドネシア賠償リベート問題など、対外スキャンダルにも黒幕として関わったといわれる。1976年(昭和51年)、ロッキード事件が発覚し、一連の政界スキャンダル問題に関与したことが明らかにされた。同事件裁判中であったが死去により控訴棄却となった。

人物 / 略歴

児玉 誉士夫(こだま よしお、明治44年(1911年)2月18日 ~ 昭和59年(1984年)1月17日)

福島県安達郡本宮町(現:本宮市)に生まれる。日本の右翼運動家。CIAエージェントであったとも言われる。

暴力団・錦政会(後の稲川会。会長は稲川裕芳で、後の稲川聖城)顧問。「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれた。

◆ 略 歴

父酉四郎の旧姓は山田といい、先祖は代々二本松藩の藩士だった。祖父は明治維新後、二本松の副参事になったが、父の代になって、同じ二本松藩の御典医児玉家から望まれて養子となったため、児玉姓にかわった。

朝鮮に住む親戚の家に預けられ、京城商業専門学校を卒業した後、(なお、その後日本大学皇道科を卒業したということになっている)工場の単純労働者として働いた。

◆ 様々な右翼団体を転々

1929年には赤尾敏によって創設された急進的な右翼団体「建国会」に加わった。すぐに昭和天皇に直訴しようとして捕まる。この天皇直訴事件で半年投獄された。

その後、津久井龍雄の急進愛国党を経て1931年に大川周明の全日本愛国者共同闘争協議会に参加。そこで国会ビラ撒き事件や井上準之助蔵相脅迫事件を起こし投獄された。

1932年に「独立青年社」を設立。頭山満の三男頭山秀三が主宰する天行会と共に、陸軍特別大演習に随行する斎藤首相や閣僚を暗殺し発電所を破壊して停電を起こすことで皇道派のクーデターを誘発しようと計画(天行会・独立青年者事件)。発覚して、3年半の懲役刑を受けた。その後、笹川良一が結成した右翼団体・国粋大衆党(後の国粋同盟)に参加。

1937年、外務省情報部長河相達夫の知遇を得て、中国各地を視察。1938年、海軍の嘱託となり、1941年から上海で児玉機関を運営し、それをきっかけに黒幕へのし上がっていく。

1960年代初期には15万人以上の会員がいた日本最大の右翼団体全日本愛国者団体会議(全愛会議)を支える指導者の一人であった。天野辰夫や橘孝三郎、小沼正、佐郷屋留雄、笹川良一、三浦義一らがいた。

1961年、青年思想研究会(青思研)が誕生した。日乃丸青年隊の高橋正義を議長とし、下部組織には住吉会系の元組長や東声会の町井久之が代表を務める組織があった。青思会は日本最大の行動右翼として児玉に反目する者を恐れさせた。

1969年、青思研より独立した右翼団体日本青年社(前身は楠皇道隊)が結成。これはヤクザと見分けが付かない任侠右翼の始まりであった。

◆ 「フィクサー」へ

第二次世界大戦の終結後に上海から持ち帰った資金(現在の時価にして3750億円)を海軍に返還しようとしたというが、この資金は、調べられれば、汚れた金であることがわかってしまう。戦時犯罪の疑いをかけられたくなかった海軍は、児玉に処分を依頼。旧海軍の資産のためアメリカも没収せずに、宙に浮いた。

児玉は、巣鴨拘置所に共にいた右翼でヤクザの親分でもある辻嘉六に勧められて、この資金の一部を鳩山ブランドの日本民主党(鳩山民主党)の結党資金として提供した。

1954年には、河野を総理大臣にする画策に力を貸した。1955年には自由党(緒方自由党)と合併して自由民主党になった後も緊密な関係を保ち、長らく最も大きな影響力を行使できるフィクサー(黒幕)として君臨した。岸信介が首相になる際にもその力を行使した。

インドネシアへの政府開発援助では東日貿易秘書としてスカルノ大統領の夜の相手に選ばれたクラブホステス根元七保子(源氏名はデビ、後の通称デヴィ夫人)を送り込んで荒稼ぎをしている。

◆ ロッキード裁判

1976年(昭和51年)、アメリカ上院で行われた公聴会で、「ロッキード社が日本の超国家主義者を秘密代理人として雇い、多額の現金を支払っている」事実があきらかにされ、日本は大騒ぎとなった。

その後、三木武夫首相によってこの事件の捜査が開始され、すでにこの事件の中心人物と目されていた65歳の児玉は衆議院での証人喚問がおこなわれる直前に「発作」を起こし、床についた。

児玉は死期が近づいた時、「自分はCIAの対日工作員であった」と告白している。

72歳の児玉は判決が出る直前の1984年(昭和59年)1月に再び発作を起こして世を去った。

特記事項

2007年3月12日にアメリカの公文書館保管のCIA対日工作機密文書が機密解除されて公開されたが、それによると、児玉のことを「プロのうそつきで悪党、ペテン師、大どろぼうである。情報工作できるような能力は全くなく金儲け以外に関心がない」と評している。

◆ 家族

三男はTBSサービス社長の児玉守弘(こだま もりひろ、1943年5月17日 ~ )。

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