追悼の森 =吉田茂元首相死去=

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第45代 48~51代 内閣総理大臣 吉田 茂 さん死去

1967年(昭和42年)10月20日 死去 享年89歳

吉田茂写真  

第45・48・49・50・51代 内閣総理大臣  吉田 茂 さん死去

ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた 吉田 茂(よしだ しげる)元首相が1967年(昭和42年)10月20日正午頃、神奈川県大磯町(おおいそまち)の自邸で死去した。89歳だった。

1946年(昭和21年)5月、自由党総裁 鳩山一郎の公職追放にともなう後任として内閣総理大臣に就任した。以来、5度にわたって内閣総理大臣に任命された。通算在任期間は2616日。今年8月末に心筋梗塞を発症し療養生活を送っていた。

人物 / 略歴

吉田 茂(よしだ しげる、1878年(明治11年)9月22日 ~ 1967年(昭和42年)10月20日)

東京神田駿河台(のち東京都千代田区)に生まれる。外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。

外務大臣(第73・74・75・78・79代)、貴族院議員(勅選)、内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、 第一復員大臣(第2代)、 第二復員大臣(第2代)、農林水産大臣(第5代)、衆議院議員(当選7回)、皇學館大学総長(初代)、学校法人二松学舎舎長(第5代)などを歴任した。

◆ 略 歴

1878年(明治11年)9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士竹内綱の5男として東京神田駿河台(のち東京都千代田区)に生まれる。

実母の身元はいまでもはっきりしない。

1881年(明治14年)8月に、横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)吉田健三の養子となる。

養父・健三が40歳の若さで死去し、11歳の茂は莫大な遺産を相続した。吉田はのちにふざけて「吉田財閥」などといっている。

◆ 学生時代

戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業後、1889年(明治22年)2月、耕余義塾に入学し、1894年(明治27年)4月に卒業すると、10年余りに渡って様々な学校を渡り歩いた。

1897年(明治30年)10月に学習院に入学、1901年(明治34年)8月に学習院高等学科を卒業した。

同年9月、当時華族の子弟などを外交官に養成するために設けられていた学習院大学科に入学、このころにようやく外交官志望が固まったが、大学科閉鎖に伴い1904年(明治37年)同年9月に東京帝国大学法科大学に移り、1906年(明治39年)7月、政治科を卒業。

◆ 外交官時代

当時外交官としての花形は欧米勤務だったが、吉田は入省後20年の多くを中国大陸で過ごしている。

1928年、田中義一内閣の下で、森は外務政務次官、吉田は外務事務次官に就任する。

1939年待命大使となり外交の一線からは退いた。

1945年(昭和20年)2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束される。40日あまり後に不起訴・釈放となったが、この戦時中の投獄が逆に戦後は幸いし「反軍部」の勲章としてGHQの信用を得ることになったといわれる。

◆ 第二次世界大戦後 / 内閣総理大臣就任

終戦後の1945年(昭和20年)9月、東久邇宮内閣の外務大臣に就任。11月、幣原内閣の外務大臣に就任。12月、貴族院議員に勅選される。

翌1946年(昭和21年)5月、自由党総裁鳩山一郎の公職追放にともなう後任総裁への就任を受諾。内閣総理大臣に就任した(第1次吉田内閣)。

1947年(昭和22年)4月、日本国憲法の公布に伴う第23回総選挙では、憲法第67条第1項において国会議員であることが首相の要件とされ、また貴族院が廃止されたため、高知県全県区から立候補し、トップ当選した。

◆ サンフランシスコ平和条約

1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシスコ平和条約を締結。

また同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約を結んだ。

吉田は政治生命を賭けて平和条約の調印に臨んだが、帰国後の内閣支持率は戦後最高の58%(朝日新聞)に上った。しかし、ここが吉田の頂点であった。

独立達成を花道とした退陣論もあったが、吉田はなおも政権に意欲を見せ、続投。しかし、公職追放を解かれた鳩山一郎グループとの抗争や度重なる汚職事件を経て、支持は下落していく。

1954年(昭和29年)12月7日に内閣総辞職。翌日、自由党総裁を辞任。

日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人である。内閣総理大臣在任期間は2616日。

◆ 晩年 / 内閣総辞職後

1962年(昭和37年)、皇學館大學総長就任、翌1963年(昭和38年)10月14日、次期総選挙への不出馬を表明し政界を引退。

しかし、引退後も大磯の自邸には政治家が出入りし、政界の実力者として影響を及ぼした。

1967年(昭和42年)8月末に心筋梗塞を発症した。このときは、あわてて駆けつけた甥の武見太郎(医師会会長)の顔を見て「ご臨終に間に合いましたね」と冗談を言う余裕を見せたといわれる。

しかし、さらに2ヵ月後の1967年(平成42年)10月20日正午頃、神奈川県大磯町(おおいそまち)の自邸で死去した。享年89歳。

特記事項

東久邇宮内閣や幣原内閣で外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日~1947年5月24日、および、1948年10月15日~1954年12月10日まで在任した。在任期間は1616日。

優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いた。

ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。

内務官僚を経て貴族院議員となり、米内内閣の厚生大臣や小磯内閣の軍需大臣を務めた吉田茂は、同時代の同姓同名の別人である。

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