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芸者歌手 小唄 勝太郎 さん死去

1974年(昭和49年)6月21日 死去 享年69歳

小唄勝太郎写真  

芸者歌手 小唄 勝太郎 さん死去

「島の娘」や「東京音頭」で国民的な人気歌手として知られた 小唄 勝太郎(こうた かつたろう) さんが 1974年(昭和49年)6月21日、 肺がんのため東京都府中市内の自宅で死去した。69歳だった。

15歳で内芸者となり、東京の葭町(現:中央区日本橋人形町)に籍を置き、勝太郎を名乗った。1931年(昭和6年)、日本ビクターと正式な契約を結び、レコード歌手としてデビューした。1933年(昭和8年)に発売された「島の娘」のレコードは3ヶ月で35万枚を売る未曾有の大ヒット作となった。

1971年(昭和46年)、紫綬褒章受章。さらに1974年(昭和49年)には、勲四等宝冠章を受章した。

人物 / 略歴

小唄 勝太郎(こうた かつたろう、1904年(明治37年)11月6日 ~ 1974年(昭和49年)6月21日)

新潟県中蒲原郡沼垂町(現:新潟市中央区)に生まれる。本名は眞野かつ。旧姓は佐藤。女性歌手。

◆ 略 歴

幼い頃から親戚の料亭「鶴善」で手伝いをする傍ら、知らずと身についた小唄が評判となり、15歳で内芸者となる。

清元の師匠になるべく、大正末期に上京。東京の葭町(現在の中央区日本橋人形町)に籍を置き、勝太郎を名乗る。

折りしも、レコード産業の黎明期と重なり、同じ葭町の藤本二三吉が『浪花小唄』や『祇園小唄』の大ヒットを飛ばすと、愛くるしい笑顔と美声で評判であった勝太郎にも声がかかり、オデオンレコードで初吹き込み。

1931年(昭和6年)、日本ビクターと正式な契約を結び、レコード歌手としてデビューする。

1932年(昭和7年)、銀座の柳植樹記念として作られた『柳の雨』が、A面の四家文子が歌う『銀座の柳』とともに大ヒット。

同年の大晦日、新進作曲家の佐々木俊一が作曲した『島の娘』が放送されると、聴取者から大反響を呼び、翌1933年(昭和8年)に発売されたレコードは発売から3ヶ月で35万枚を売る未曾有の大ヒット作となった。

当時、著名な音楽評論家が『島の娘』より、ベートーベンの方が好きだという人がいるとしたら、その人は日本人ではなくドイツ人である。と絶賛したほどであった。

歌いだしが「ハァー」と始まる『島の娘』のヒットを受けて、いわゆる「ハァ小唄」と言われる流行歌が次々と世に出ることとなる。 だが、『島の娘』は当局から「歌詞に問題アリ」とされ、歌詞の一部を改作させられた。その後、太平洋戦争に突入する頃には発禁処分を受け、歌うことも禁じられてしまった。

一躍、人気歌手となった勝太郎は、『大島おけさ』『佐渡を想えば』と連続してヒットを出すが、決定打となったのは、盆踊りのシーズンに発売された『東京音頭』である。民謡調を得意とした三島一声とのデュエットによってレコーディングされ、東京だけでなく、日本全国の盆踊りは『東京音頭』一色に染まったのであった。

人気絶頂の勝太郎は、葭町の芸者を廃業し、レコード歌手に専念することを決意。

1934年(昭和9年)、歌舞伎座で「小唄勝太郎」襲名の披露興行が華やかに開催された。

小唄勝太郎を名乗ってから、春のシーズンに発売された『さくら音頭』は、曲を変えて各社競作となるほどの大ヒットとなったが、本家ビクターの勝太郎盤が最も売り上げを伸ばした。

勝太郎の人気により、レコード業界に鶯歌手旋風が巻き起こり、同じビクターから市丸、コロムビアからは赤坂小梅、豆千代、ポリドールからは新橋喜代三、浅草〆香、ニットーからは美ち奴、日本橋きみ栄と続々と芸者出身の歌手が人気を博した。

市丸は後に「勝っちゃんが歌い終わるとするようなにっこり笑う顔がどうにも愛嬌があって、あたしにはとてもできなかったの」と語っているが、当時二人は出番や着物、出演料に至るまで相当張り合っていた。

1936年(昭和11年)、JO映画『勝太郎子守唄』に主演。『娘船頭さん』『あんこ椿』と順調にヒットを続ける一方で、昭和12年、作詞家の西條八十やSKDの江戸川蘭子らとともに中国大陸に戦地慰問に赴いていたのをきっかけに、その後も何度と無く、前線の将兵を慰問している。

1938年(昭和13年)、戦地で病に倒れた際に、軍医・眞野遼一と知り合い、二人は戦後になってからの1949年(昭和24年)に結婚した。

戦時中も勝太郎の活躍は続き、1942年(昭和17年)に発売された『明日はお立ちか』は、放送局にリクエストの電話が掛かってくるほどの大反響を呼び、久々の大ヒットとなった。軍需工場の慰問などに忙しい日々を送っていた勝太郎であったが、内地で終戦を迎える。

1946年(昭和21年)、コロムビアに移籍。1948年(昭和23年)にはテイチクに移籍した。

1950年(昭和25年)には親善使節として日本の芸能人としては戦後初めて、渡辺はま子、三味線けい子らと渡米し、ハワイ、ロサンゼルス、サンフランシスコと、現地の日系人に『東京音頭』の歌手として大人気を博す。さらに、東海林太郎らとともにブラジルへも赴き、こちらでも日系人の熱烈な歓迎を受けている。

1961年(昭和36年)、設立間もない東芝に移籍。主に民謡を中心にレコーディング活動を続けた。

昭和40年代の懐メロブームには欠かせない存在となり、東京12チャンネルの「なつかしの歌声」には常連のメンバーで、死の直前まで出演している。

1971年(昭和46年)、紫綬褒章受章。さらに1974年(昭和49年)には、勲四等宝冠章を受章。

肺癌のため同年6月、東京都府中市の自宅で69年の生涯を閉じた。

特記事項

勝太郎生誕100年の翌年である2005年(平成17年)、故郷の新潟市中央区沼垂東四丁目の鶴善跡地に「小唄勝太郎顕彰碑」が建立された。

◆ 小唄勝太郎 / 代表曲

◇ 『島の娘』(昭和7年12月)
◇ 『大島おけさ』(昭和8年6月)
◇ 『東京音頭』(昭和8年7月)共唱:三島一声
◇ 『佐渡を想えば』(昭和8年12月)
◇ 『さくら音頭』(昭和9年2月)共唱:三島一声、徳山璉
◇ 『祇園囃子』(昭和9年5月)
◇ 『瑞穂踊り』(昭和16年7月)共唱:鈴木正夫、市丸、一色皓一郎、山本麗子
◇ 『明日はお立ちか』(昭和17年3月)
◇ 『大島情話』
◇ 『佐渡おけさ』
◇ 『勝太郎子守唄』

◆ 小唄勝太郎 / NHK紅白歌合戦出場歴

◇ 第4回 (1953年12月31日、日本劇場(日劇)) 『島の娘』
◇ 第6回 (1955年12月31日、産経ホール) 『お染』
◇ 第7回 (1956年12月31日、東京宝塚劇場) 『唐人お吉の唄』

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