追悼の森 =新橋喜代三さん死去=

I was thunderstruck at the news of his death

Top Page    有名人訃報一覧【さ~し~す~せ~そ】 著名人訃報一覧【さ~し~す~せ~そ】Etc-279
nagomi画像
Smart Phone
スマートフォンサイト訃報

芸者歌手 新橋 喜代三 さん死去

1963年(昭和38年)3月23日 死去 享年59歳

新橋喜代三写真 

芸者歌手 新橋 喜代三 さん死去

昭和初期から中期に活躍し 元芸者歌手として人気を博した 新橋 喜代三(しんばし きよぞう)さんが 1963年(昭和38年)3月23日、胆管がんのため死去した。59歳だった。

鹿児島県西之表市(種子島)出身。昭和初期からのレコード業界では鶯(うぐいす)歌手旋風が巻き起こり、市丸、赤坂小梅、豆千代、小唄勝太郎など続々と芸者出身の歌手が人気を集めていった。1931年(昭和6年)上京し、名を喜代三と改めた。1934年(昭和9年)1月、「鹿児島小原良節」を出し大ヒット。翌年には「明治一代女」もヒットしブームとなった。

人物 / 略歴

新橋 喜代三(しんばし きよぞう、女性、1903年10月12日 ~ 1963年3月23日)

鹿児島県(種子島)西之表市出身。本名は中山嘉子。旧姓、旧名は 今村タネ。歌手で、元芸者。

作曲家中山晋平の後妻。

◆ 略 歴

父今村正義、母チカの元に9人兄妹の長女(第1子)として生まれ、出生地の種子島に因んで「タネ」と名付けられた。

鹿児島市唐湊に住んだ頃、尋常小学校へ入学するが、正義の度重なる商売の失敗で夜逃げをするに至り、宮崎県小林市に移り住んだ後、家計を助けるため尋常小学校5年で中退、近所の芝居小屋「新芸座」に住み込んで売り子の仕事をするようになった。

1916年(大正5年)2月、小林で正義が営んでいた商売が軌道に乗り、一家は鹿児島へ戻ることとなる。鹿児島駅近くの小川町で小さな果物屋を開いた。

◆ 芸者となる

1916年(大正5年)4月15日、鹿児島市の西券番に属する芸者置屋「都屋」へ身代金100円と引き換えに芸者の仕込みとして入る。正義はその身代金を元手に食堂を開店した。

唄に三味線にと熱心に取り組み、馴染みの客なども出来順調なようであったが、旦那(ここではスポンサーのこと)を持つ事を拒否していたため、着物代などの経費は自腹で賄わねばならず、その為に借金が増えてった。

◆ 鹿児島随一の売れっ子芸者として

1922年(大正11)年7月10日、妓籍名を喜代治と改めてお披露目。

昭和に入ると、ますます喜代治の人気は高まり、地元の名士の宴席はもちろんのこと、鹿児島を訪れた政財界の要人の宴席には決まって喜代治が呼ばれるようになる。

1929年(昭和4年)には、鹿児島を訪れた大倉喜七郎、大川平三郎、松野鶴平、渋沢栄一らの宴席も務めており、彼らは後に喜代治が新橋花柳界に移籍してからも贔屓の客となった。

◆ 中山晋平との出会い

1930年(昭和5年)秋、鹿児島では「國産振興博覧會」が企画され、その宣伝ソングを作る話が持ち上がり、作家として指名されたのは作詞が西條八十、作曲が中山晋平の両巨匠であった。

1931年(昭和6年)2月5日、その二人が取材のために鹿児島を訪れ、料亭「青柳」での接待の宴席に呼ばれたのが喜代治であった。その席で喜代治は一八直伝の『小原良節』を披露している。

鹿児島滞在中から喜代治に恋心を寄せていた中山は、鹿児島を離れた僅か4ヶ月後、歌を作る為に西條と共に訪れていた福岡県久留米市から、喜代治に会うためだけに西條を伴って再度鹿児島を訪れている。

また喜代治も中山の人柄に触れ、尊敬の念が次第に恋愛感情へと変わって行った。

◆ 東京進出、スター歌手へ

鹿児島物産展のアトラクションに出演するため上京した喜代治は、アトラクション出演の傍ら、中山晋平の紹介によりビクターで『小原良節』『はんや節』『よさこい節』『三下り』の4曲をレコーディングした。 また、東京への進出を勧められた。

1931年(昭和6年)10月22日、鹿児島商工会議所会頭、料亭関係者、芸妓組合50人以上の見送りを受けて上京。名を喜代三と改める。

ポリドールの専属となり、新橋喜代三の名で流行歌『わしゃ知らぬ』を吹込み、1933年(昭和8年)6月に発売。

1934年(昭和9年)1月、『鹿児島小原良節』を出し大ヒット。便乗した他社からも次々に『鹿児島小原良節』のレコードが発売されるほどのブームとなった。翌年には『明治一代女』もヒットした。

この間、中山とは既に愛人関係となっており、熱海や箱根仙石原の別荘で逢瀬を重ねながらも、中山の依頼で敏子夫人に三味線を教え、喜代三は中山から発声のレッスンを受けるため中山家に出入りしていた。

1936年(昭和11年)10月15日、かねてより療養中であった中山夫人の敏子が45歳の若さで亡くなった。

◆ 中山と結婚、引退

夫人没後の中山の身の回りの世話を案じた周囲の勧めにより、中山は上京以来愛人関係にあった喜代三にプロポース。

1937年(昭和12年)12月3日、銀座の山野楽器社長山野政太郎夫妻の媒酌により丸の内会館で結婚。それを機に引退し家庭に入った。僅か4年余りの歌手生活であった。

1952年(昭和27年)12月30日、中山が65歳で死去。結婚に際しては「どうせすぐに離婚するに決まっている」などと中山の親族らに反対する者もあったが、結果的に生涯添い遂げた。中山は臨終間近の病床で喜代三の手を取り「よく支えてくれたね」と労った。

◆ 晩年

中山の没後しばらくは抜け殻のようになっていたが、歌手復帰を決意。

1954年(昭和29年)3月にビクターへ入社。喜代三の名で『小原良節』『ひえつき節』『上州小唄』『田原坂』『キンキラキン』などを吹込み、秋には博多を振り出しに18年振りに九州各地を演奏旅行している。

その他中山晋平音楽祭などに関与したり、中山の作品の普及に努めるなど熱心に活動したが、志半ばで1963年(昭和38年)3月23日に胆管癌のため他界した。59歳没。

特記事項

喜代三は美麗な容姿からは想像もつかないほどの酒豪であった。レコーディングやステージなど、緊張する場面では酒を飲んで緊張を抑えるのが常で、スタジオや楽屋で一升瓶を空にする事も珍しくなかった。

◆ 新橋喜代三 / 代表曲

◆ 民謡
◇ 鹿児島小原良節
◇ 鹿児島三下り
◇ 鹿児島ハンヤ節
◇ 鹿児島よさこい節
◇ 豪傑節
◇ 下ノ江節
◇ じょうさ節
◆ 流行歌
◇ わしゃ知らぬ
◇ 明治一代女
◇ お伝地獄の唄
◇ 櫛巻お藤の唄
◇ 幕末小唄
◇ 青空道中(東海林太郎とのデュエット)
◇ 酋長の娘
◇ 十七島田

◆ A Related Words :
新橋喜代三 芸者歌手/新橋喜代三 死去/新橋喜代三 訃報/新橋喜代三 プロフィール/新橋喜代三 略歴

Page Top

スマートフォン / PC サイト