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映画監督  黒澤 明 さん死去

1998年(平成10年)9月6日 死去 享年88歳

黒澤明写真  

映画監督  黒澤 明 さん死去

映画「七人の侍」などの作品で知られる映画監督の 黒澤 明(くろさわ あきら)さんが1998年(平成10年)9月6日午後零時45分、脳卒中のため東京都世田谷区成城の自宅で死去した。88歳だった。

小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男らと共に、世界的にその名が知られた日本映画の巨匠であった。日本では「世界のクロサワ」と称された。1985年(昭和60年)11月には映画業界の人物としては初の文化勲章を受章した。脚本執筆中に、京都の旅館で転倒骨折し療養生活を送っていた。

人物 / 略歴

黒澤 明(くろさわ あきら、新字体:黒沢明、1910年3月23日 ~ 1998年9月6日)

東京府荏原郡大井町(現:東京都品川区東大井)の日本体育会(現:日本体育大学)敷地内に生まれる。映画監督。

米国映画芸術科学アカデミー会員。栄典及び称号は、従三位、文化勲章、文化功労者、国民栄誉賞、東京都名誉都民。

◆ 略 歴

4男4女の末っ子として生まれた。父親は秋田県中仙町(現在の大仙市)出身の元軍人で、体育教師をしていた。

黒田小学校(文京区立第五中学校の前身)を経て、1928年(昭和3年)に京華中学校を卒業した。

初め画家となることを志した黒澤は、日本プロレタリア美術家同盟に参加。二科展にも入選している。

1936年(昭和11年)、画業に見切りをつけた黒澤は、100倍の難関を突破してP.C.L.映画製作所(後に東宝と合併)に入所した。

◆ 白黒映画監督時代

第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)、『姿三四郎』で監督デビューした。以後、終戦を挟んで『わが青春に悔なし』、『素晴らしき日曜日』、『醉いどれ天使』、『野良犬』など、社会派ヒューマンドラマの佳作を次々と発表した黒澤は、東宝の看板監督のひとりとなった。

また、映画監督・山本嘉次郎が参加していたオーディションにおいて、俳優・三船敏郎をたまたま目撃。一目ぼれした黒澤は山本に直訴までして採用。三船のデビュー3作目『醉いどれ天使』からは、黒澤監督作品の常連俳優となった。

◆ 自身の映画制作

東宝争議の混乱を経て、成瀬巳喜男監督らと映画芸術協会を設立し東宝を退社。

1950年に大映で撮影した『羅生門』は、1951年にヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞。その映像感覚が国際的に注目される。

続けてドストエフスキー原作の『白痴』(1951年)やヒューマンドラマの傑作『生きる』(1952年)を撮り、後者でベルリン国際映画祭上院特別賞を受賞。

1954年に発表した大型時代劇『七人の侍』は大ヒットし、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞するなど国際的にも高い評価を受ける。

1958年、独立プロダクションである黒澤プロを設立。時代活劇『用心棒』(1961年)『椿三十郎』(1962年)、社会派サスペンスの傑作『天国と地獄』(1963年)を立て続けに発表し、大監督の名声を確定させる。

◆ 白黒映画および三船との決別後

1968年に日米合作『トラ・トラ・トラ!』の制作に参加する。

しかし健康問題を理由に制作を離れることとなる。

1970年黒澤が制作を離れた後に完成した『トラ・トラ・トラ!』についての週刊朝日のインタビューに対し、黒澤は「見ていないし、見たくもない、当時の改善提案が修正されているとは思えない。済んだことであり興味がないし蒸し返すのはもうたくさんで、忘れてしまいたい」旨の内容を答えている。

1971年末、自殺未遂事件を起こす。日本の映画産業の衰退の時期と重なったこともあり、この後は5年おきに撮るようになった。

1976年11月、日本政府から文化功労者として顕彰される。

1985年11月、文化勲章受章。映画業界の人物としては初の文化勲章受章者となった。

1990年米アカデミー名誉賞を受賞。

◆ 死去

『まあだだよ』(1993年)に続く次回作として予定されていた『雨あがる』の脚本執筆中に、京都の旅館で転倒骨折。

療養生活に入り1998年9月6日脳卒中により死去。88歳没。

没後、叙・従三位。同年10月1日、映画監督としては初の国民栄誉賞を受賞。

特記事項

没後の翌1999年には米週刊誌『タイム』アジア版で「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」に選ばれた。

◆ 黒澤明記念館問題

佐賀県伊万里市黒川町大字福田字米島地内に建設が計画されていた。開館までの繋ぎの仮施設として、1999年7月2日に伊万里市市街地中心部の商業施設にサテライトスタジオが開設された。

2001年、黒澤明文化振興財団が寄付金を募り黒澤明記念館を建築する予定で2007年年度末までに伊万里市が黒澤明記念館建設購入権を含め3億5100万円、総額で約3億8800万円もの建設資金を寄付などで集めたことが分かった。

しかし同財団が佐賀県に提出した2007度決算報告書ではわずか140万円しか残っていないことが判明、純資産も9000万円しか無かった。

2010年2月19日、伊万里市議会全員協議会に於いて、同財団理事長で黒澤明の息子である黒澤久雄らは「資金の大半は仮施設の運営などで使い果たしてしまった」と陳謝した。

その後2010年5月には、同財団側が、多額の資金を集めて記念館を造ることが現実的でないとした上で、市内の商店街に既にオープンしているサテライトスタジオをリニューアルし本記念館としたいとの意向を示し、記念館の建設を事実上断念することを決めたと、伊万里市側が明らかにした。

2011年3月6日、サテライトスタジオが閉館した。

◆ 黒澤明 / 受賞歴

◇ 『羅生門』
・ 1951年 - ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞・イタリア批評家賞、
・ 1951年 - ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞監督賞、
・ 1953年 - アメリカ監督組合賞ノミネート、
・ 1952年 - 米アカデミー賞名誉賞(現在の外国語映画賞)

◇ 『生きる』 1954年 - ベルリン国際映画祭ベルリン上院特別賞
◇ 『七人の侍』 1954年 - ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞
◇ 『隠し砦の三悪人』 1958年 - ベルリン国際映画祭銀熊賞監督賞・国際批評家連盟賞

◇ 『赤ひげ』
・ 1965年 - ヴェネツィア国際映画祭国際カトリック映画事務局賞(OCIC Award)
・ モスクワ映画祭ソ連映画人同盟賞
・ フィリピン・マグサイサイ賞ジャーナリズム部門賞

◇ 『どですかでん』 - モスクワ映画祭映画労働組合賞

◇ 『デルス・ウザーラ』
・ 1975年 - モスクワ映画祭金賞・国際連盟批評家賞
・ 1976年 - 米アカデミー賞外国語映画賞
・ 1977年 - 伊ダビデ・ディ・ドナテルロ賞監督賞(外国語)
・ 1977年 - イタリア批評家協会賞監督賞(外国語)、パリ国際映画祭賞

◇ 『影武者』
・ 1980年 - カンヌ国際映画祭パルム・ドール
・ 1981年 - 英国アカデミー賞監督賞
・ 1981年 - セザール賞外国語映画賞
・ 1981年 - イタリア批評家協会賞監督賞(外国語
・ 1981年 - 伊ダビデ・ディ・ドナテルロ賞監督賞(外国語)
・ 1981年 - ベルギー映画批評家協会監督賞)

◇ 『乱』
・ 1985年 - 米アカデミー賞監督賞ノミネート
・ 1985 - 年全米批評家協会賞作品賞
・ 1985年 - ニューヨーク批評家協会賞外国映画賞
・ 1985年 - ロサンゼルス批評家協会賞外国映画賞
・ 1985年 - ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞監督賞
・ 1985年 - ボストン批評家協会賞作品賞
・ 1986年 - 伊ダビデ・ディ・ドナテルロ賞監督賞(外国語)
・ 1987年 - 英国アカデミー賞外国語映画賞
・ 1987年 - ロンドン映画批評家賞監督賞

◇ 1979年 - モスクワ映画祭名誉賞
◇ 1980年 - カンヌ国際映画祭35周年記念特別表彰
◇ 1982年 - ヴェネツィア国際映画祭栄誉金獅子賞(Career Golden Lion)
◇ 1984年 - 第2回川喜多賞
◇ 1985年 - 文化勲章
◇ 1986年 - アメリカ監督組合賞特別賞
◇ 1990年 - 米アカデミー名誉賞
◇ 1990年 - 日本国福岡市 福岡アジア文化賞創設特別賞
◇ 1992年 - メリカ監督組合賞生涯功労賞
◇ 1992年 - 高松宮殿下記念世界文化賞 演劇・映像部門賞
◇ 1998年 - 国民栄誉賞

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